飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

窮屈な現代の本当らしさとそれを信じるということ

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心霊と怪談の違いとはなんだろう。いや、実のところ、それはなんとなく分かる。では、心霊番組と怪談番組の違いとはなんだろう。

の編集中にたまたま読んだ「“恐怖コンテンツ”の勢力図に異変!? 「怪談番組」がCSなどで重宝されるワケ」という記事が気になった。

この記事に書いてあることを信じれば、「非科学的」「やらせ」「捏造」への視線が厳しい現代において、テレビ番組では「心霊」より「怪談」のほうが扱いやすい、らしい。

前半は、感覚的には納得できる。「非科学的」も「やらせ」も「捏造」も、安心して指を差せそうな、明らかな悪徳に見えるのだろう。こんなアメリカンジョークを聞いたことがある。「警察官になりなさい。相手のほうが必ずあなたより悪いから」。

引っ掛かるのは後半である。「心霊」に捏造の影が見えたら、視聴者に糾弾される。だったら、なぜ「怪談」ならそれが許容される(とこの記事の著者は考えている)のだろうか。

「心霊」より「怪談」のほうが扱いやすいという構図からは、「心霊」は事実でなければならない、「怪談」は作り話であってもよい、という前提があるように思える。心霊と怪談の違いは、本当にそんなところにあるのか。

私は、心霊は霊的なものそのもので、怪談は心霊を含む不思議なもの・ことが「あったとさ」と語ることだ、と捉えている。事象と受け手の間に、語り手が挟まることにより、確かにそこに嘘や脚色が混じる可能性は高まるだろう。

ただ、「番組」である時点で、それは「あったとさ」という語りの一種になっていると思う。「番組」は明らかに、心霊現象を受け手(視聴者)に伝える語り手である。すると、心霊番組は既に怪談と変わらないものになっている気がする。怪談番組の場合は、事象→語り手→番組→視聴者と仲介者が増えるだけではないのか。

さらに言えば、怪談が作り話であるとも限らない。現に、先ほどの記事でインタビューを受けている語り部の方は、実際の体験談を「ルポルタージュ的なアプローチ」で取材し、披露する形式をとっているという。

(この方は、心霊番組が作りづらくなった理由をどう見るかと質問されて「心霊スポットのロケはお金がかかる。語り部をスタジオに呼んで話をさせるのは低予算」という内容の回答をしており、なるほど明快で納得しやすいなと思った)

それなのに、怪談というものに嘘っぽさを感じるとしたら、それはなぜか。心霊現象を目の当たりにするというのは特別なことだ。しかし、怖い話をするのは誰にでもできそうなことだ、と思うからだろうか。

そう、誰にでもできる。絵だって誰にでも描ける。小説だって誰にでも書ける。楽ちんで、いい加減なものだ。しかしそれをうまい具合にやろうと思ったら、どうやらこれは全然簡単でもなければ、誰にでもできることでもないぞ。

でも、いい加減なものだと(もし本当に思われているとしたら)思われていたほうがいいのかもしれない。怪談は、どこかに瑕疵がないかと目を見開いて隅々まで検証するための材料ではないのだから。ましてや自分で目の当たりにした心霊そのものだったらなおさらだ。

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これまでとこれからの更新(予定)

悪夢も誰かの夢である

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純金の鎖を首からかけた男が、バスタブの中で札束に埋まっている。たくましい腕には一人ずつ、グラマラスな美女をぶら下げている――

悪夢も誰かの夢である。

3年ほど前に「小説を書くのがつらい。」というアンケートを行った。Twitterで告知して、フォロワーさんが10人くらい答えてくれたら嬉しいなと思っていたら、半日で400を超える回答が集まって、それ以上は集計が追いつかなくなるので泣く泣く締め切った。

回答の内容以前に、「小説を書くのがつらい」ということについて何か言いたいという人がどうやらたくさんいるらしいぞ、ということがまずショッキングだった。

さて、その設問の一つで「知人から『小説を書くのがつらい』と相談されました。どうしますか(思いますか)?」と尋ねた。様々な回答があったが、助言としては多くが2パターンに分けられた。すなわち、「つらくても書きなさい」と言うか、「つらいならやめなさい」と言うかだ。

そこで私は両方とも試してみた。つらくても書くほうは、つらかった。当たり前だ。つらさに何の対策もできないまま、とにかく書くのだから。

では、書くのをやめたらどうなったか。方法は簡単で、書きたくなるまで書かないでおこう、と決めるだけである。

この効果が劇的だった。自由な時間が増えます。仕事が順調に回ります。お金が溜まります。人に優しくなり、家庭が円満になります。ほとんど通販でパワーストーンを手に入れた人状態である。

これにはまいった。一年間くらいほぼ書かないでいたが、いっこうに書きたくならない。どうやら、このまま書きたくなるのを待っていたら、ろくに何も書かないまま一生を終えることになりそうだ。

死の床で家族と友人に感謝の言葉を述べて「幸せな人生でした」と静かに目を閉じるのだろうか。それはいやだぞ、と思った。いや、穏やかな死も、感謝と幸福に満ちた生も、それはそれで望むところなのだが、そのおしまいのときまでにちゃんと小説を書くという工程が挟まっていないのは落ち着かないのだ。

この「ちゃんと」というのが何を意味するのか、私はずっと頭を悩ませているのだが、それについては今度出す『見えない聞こえない曲がりにくい』という本を読んでみてほしい。ときどき宣伝を挟まないと、本に書いたことをうっかり全部喋ってしまいそうになる。

ともかく、一つはっきりと分かった。「つらくても書きなさい」も「つらいならやめなさい」も、「小説を書くのがつらい」という状況の解決策ではないのだ。かと言って、他の人に何かアドバイスをしようと思ったとき、この二つ以上のことを言うのはやはり難しい。

自分でなんとかするしかない。でも、自分でなんとかできないから困っている。

それで、私は手揉みしながら共著者となる人に尋ねた。何か楽にうまいこと小説を書けるいい方法はありませんかね。パワーストーンを買うのは無しで。

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これまでとこれからの更新(予定)

我々はキュウリを差し出さないといけない

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楽しい夏の夜のことだったので記憶違いもあるかもしれないが、その帰り道、私はぬか漬けとスキレットの話をしたはずだ。

久しぶりの人たちと会った日だった。みんな小説を書くような人だった。その中で「この頃、書けないね」と言い合ったのが私と津和野さんだった。

私は、もうずっと書くのがつらいし、書きたいこともないし、ついでに楽しいこともあんまりない、と言った。強いて言うなら、ぬか漬けとスキレットには興味がある。ぬか漬けは今年の初夏からぬか床を作って世話をしていた。スキレットも同じ時期に思いがけず抽選で当たって、油を塗っては熱して鉄になじませていた。

だから小説を書く代わりにぬか床をかき混ぜることならできる、とまで言ったかはよく覚えていない。とにかくそういう、つかみどころもオチもない話を聞きかねたのか、津和野さんが言った。

「でも、ぬか床をかき混ぜることはエンタメじゃありませんから、それだけでは何にもなりませんよね。即売会のブースでぬか床を混ぜていても、来た人には伝わらない。漬けたキュウリを食べてもらわないと」

この台詞には多分に私の脚色が混じっているだろうが、大体こんなことを言っていたはずだ。言ったのも、確か津和野さんだったと思うのだが、これが別の人だとここからの話の展開上都合が悪いので、そういうことにしておいてほしい。何しろ楽しい夜だったのだ。

 それを聞いた私はこう返した。

平野レミさんっているでしょう。あの人がもし『きょうの料理』か何かに出演して、カメラの前でぬか床をかき混ぜたら、テレビを見ている私たちの口にはキュウリのひとかけも入らないにも関わらず、それはきっとエンタメになるよね」

それからこんなことも言った。今、私たちがこうして小説について(そう、これでも小説についての話だったのだ)話していることは、仲間内ではとてもおもしろく感じられるけど、たまたま周りに居合わせた無関係な人々にとってはただのおしゃべりだ。ただ、話の内容をきちんと文章に起こして、真面目に編集を入れたら、ちゃんとした読み物になる可能性はあるんじゃないか。

翌日になっても、私は考え続けていた。我々はレミさんじゃないから、どんなにぬか床をかき混ぜてみせても、人を楽しませたり、考えさせたり、びっくりさせたりすることはできない。我々が人に何らかの影響を与えようとするなら、ぬか床からキュウリを取り出して、それを食べてもらわないといけない。

いつの間にか主語が「我々」になっているが、これは「レミさん」の対義語ということで許してほしい。 

私は思い切って津和野さんに連絡を取り、「何かは分からないけど、とにかく何かやりませんか」と声を掛けた。そこから、怖い話と「小説を書くこと」そのものについての本を作り、11月の文学フリマ東京に出展しようと話は進んでいく。

これからしばらくこのブログでは、それにまつわる話やそうでもない話を、記事に書いていこうと思う。

ところで、ぬか床とスキレットは毎日使うことこそが何よりの手入れであり……というような文脈を計算して、冒頭にその話を置いたのだが、どうも話がつながらなかった。そういうわけで、スキレットの話はどうやらもうおしまいである。ジャガイモを焼くとうまい。

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これからの更新(予定)

  • 窮屈な現代の本当らしさとそれを信じるということ
  • 仲間が来た! なんて日だ!
  • 『一汁一菜でよいという提案』
  • 金色の仏像が泉の中から出てきて私に問いかける
  • and more...

新刊ができあがったので本のサイズの話をします

新刊小説集『インドアゲームズ』が完成しました

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▲鈍器(クラスの本)が目立つテキレボ界隈では薄めの冊子でしょう。46ページ。

印刷所にお願いしていた新刊が届きました。ざっとページ番号など確認したところでは問題ないようです。予定通り、テキレボに持ち込めそうです。

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▲目次。何回確認しても間違えていそうでドキドキする。

表紙は画用紙に近いという紙を選びました。表はPP加工してありますが、めくると裏がごわごわしています。ラフな感じがいいです。

ところで急にサイズにこだわる

さて、Webカタログではこの本は「新書判」と表記しています。これまではA6判(文庫判)かA5判で本を作ってきました。特に最近はほぼ全て文庫判です。「新書判はちょっと整理しづらいなぁ。縦長すぎるよね。それに、個人的には本文は2段組じゃない方が読みやすいし」と一貫して考えていました。

ところが、春のある日のこと、突然「あれっ、文庫本ってちっちゃいぞ?」と思ったのです。「1ページにちょっとしか文章が入らないじゃん」と、今さら、しかも自分で書く小説は短いくせに、感じるようになったのです。

 一旦気にし始めると落ち着きません。こうなったら、いつもと違うサイズで本を作ってやろう。しかしどのくらいがいいのか。A6判を小さく感じるようになりましたが、A5判は大きすぎて威圧感があります(と、ノイローゼ気味に思っていたのです)。B6判のサイズ感は好きですが、自分で文字を配置するとどうもしっくりくるバランスになりません。

本棚の本を引っ繰り返して、一番ピンと来たのは、ノベルス判の2段組でした。

確認すると、ノベルス判はほぼ新書判と同サイズです。いずれにせよ各辺の長さは一つに決まったものではなく、持っている本を比べてもレーベルごとにはっきりと差がありました。印刷所さんの仕様を見ると、自分で細かくサイズ指定ができるようだったので、こうなったら自分が一番納得のいくサイズで作ることにします。

人並ノベルス判の誕生

横幅はすぐに決めました。105mmです。これは文庫判と同じです。本棚に文庫と新書を並べると、幅の広い新書の方が少し手前に飛び出すのが常々気になっていたのです。

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▲というわけで、文庫本と幅を揃えました。

しかしこれでは、ただでさえ「縦長すぎるよね」などと言っていたのに、なお長くなりかねません。ページを開くのもやりづらくなってしまいます。

縦の長さをいろいろ試してみました。B判に揃えて182mmではどうか(これは縦に長すぎました)、あるいはA判に揃えて148mmではどうか(これはただの文庫判でした)。持っているノベルスや新書も定規で測りながら見比べます。

その結果の173mmです。173mm×105mm。「人並ノベルス判」と勝手に名付けました。

f:id:sweet_darling:20161004215218p:plain▲ほら、並べても手前に飛び出さない。(見えますか?)

できあがりは手になじんで嬉しいサイズ感でした。他の人からしたらたぶん意識しないかささいなことで、むしろ「他の新書やノベルスとサイズが合わないではないか」と言われる恐れもあり、だとしたらそれはごもっともと頷くしかないです。

普段本の見た目にはほとんどこだわらないくせに、気の迷いで面倒な非定型サイズの本作りに取り組むことになりましたが、ともかく、今の時点では自分としては満足です。

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▲文庫と重ねるとちょうどタイトルが見えます。えっ、昧ちゃん、計算してた?

 

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インドアゲームズの表紙は本当にかっこいいんだ

表紙イラストを描いてもらいました

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▲まずは見てください。もうね、もう、もう。

来週のテキレボ4で頒布する新刊小説集『インドアゲームズ』の表紙です。

友人の昧ちゃんにお願いして描いてもらいました。過去には『投げたボールは戻ってくる』『安全シールをはがしましたか?』、『一羽の鳥が飛行機から飛び降りる』(頒布終了)に描いていただいています。4冊目! ありがとうございます、ありがとうございます。

そういうわけでこの表紙イラストを愛で続けるブログ記事です。

いつもの無茶振り

表紙をお願いする時点で、こちらの全ての原稿が完成していたことは一度もありません。堂々と言うことではありませんけども。

『一羽の鳥が飛行機から飛び降りる』と『安全シールをはがしましたか?』のときは、タイトルだけを伝えて(と言うかそれしか決まっていなくて)、ほぼその条件のみで描いてもらいました。そして描いてもらった絵を見てから、表題作を書きました。

『投げたボールは戻ってくる』は再録集だったので、大体の原稿は揃っていて、表題作が手つかずという状態でした。揃っている分の原稿データを送り、表題作のキーになるもの(新幹線など)だけを伝えて、描いてもらいました。この原稿データはPDFで200ページ以上あったはずですが、昧ちゃんは全部読んでくれたそうです。

この文章を書きながらも冷や汗がすごいんですが、とりあえず続けます。

今回の『インドアゲームズ』では、表題作の登場人物プロフィールと、冒頭部のあらすじと、最初の1ページの原稿データを送りました。少しでも出せる情報を出そうと考えてそうしたのですが、どれも断片的で、却って難しくしてしまったのではないかと後になって反省しました。

それでも昧ちゃんは、素敵なイラストを描いてくれました。へんてこりんなイメージで恐縮ですが、イラストを目にしたとき、泥の池から光る玉を持って現れる女神様の姿が私の脳裏に浮かびました。

ところが! しかも! のみならず!

結果的に、あらかじめ伝えていた登場人物プロフィールも、あらすじも、最初の1ページも、全部変わったんです。変えたんです、私が。既にイラスト描いてもらってるのに。入稿ギリギリで。ばか! おたんこなす!

さすがにまるっきり別物というわけではないのですが、「話が違うよ」と言われたら、返す言葉もありません。だって話が違うんですもん。

ですから、もしもイラストと本文でイメージが違うと感じることがあったら、それは本文の責任です。これは過去のどの本でもそうです。この不義理な依頼人に凝りずにイラストを提供してくれる昧ちゃんには、頭が上がりません。

あと、イラストを頼んだ後に和田誠『装丁物語』を読んで、やっぱり冷や汗だらだらになりました。いい本でした。

この題字がすごい

今回特にお願いしたのは、「『インドアゲームズ』という題字を手書きしてほしい」ということでした。細かい指定はしなかったので、どんな風になるかなと楽しみにしていました。

そうしたらこれですよ。すごい……すごくないですか? 詰め寄り方が馴れ馴れしくもなるってものです。まさかこうなるなんて思いもしませんでした。

字にも、その配置にも、媚びがないと感じます。私は大抵、媚びと言うか、無難な方に簡単に転んでしまうのですが、そういう気持ちだと、この題字の置き方はできないと思います。

注文を汲んでくれているのに、私の漠然とした予想とは全く異なる表紙になりました。女の子の表情も、立ち姿も、Tシャツも、模様も、最高です。

というお手紙を書こうとしたけれど

こういうことは、ブログに載せるというよりは、個人的なお手紙として御礼と共に渡すのがいいだろうと思うのですが、長い! 重い! ねちっこい! の三重苦があんまりにもあんまりだったので、公開して希釈することにしました。

昧ちゃんありがとう。このイラストを表紙にすることが、本を作る上での大きなモチベーションになりました。これを描いてもらっていなかったら、本も出なければイベント参加もキャンセルしていたかもしれません。それだけ、めげたときの励みにさせてもらいました。本当にありがとう。

私の本の表紙じゃなくて、昧ちゃんが何か作品を世に出すようなことがあったら、買えるものなら買わせてね。そういうことがあればいいなと、個人的には思っているのですが。

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とにかく机の広いイベントに出ます

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テキレボに出ますがディスプレイが決まっていません

来週10/8(土)は、第4回Text-Revolutions(テキレボ)という、文章系の同人誌即売会にサークル参加します。ブースNo.は【F-09】、サークル名は「ナタリーの家」(ちょっと変えました)。昨年の第2回以来、2度目の出展です。

バタバタと新刊の入稿を終わらせて、これから大急ぎで当日の準備をしなければならないのですが、大事なことが決まっていません。

ブースの机のディスプレイです。この机が、テキレボはやたらと広い。

f:id:sweet_darling:20151010110505j:plain▲第2回テキレボの自ブース。広いと言うか、奥行きがすごい。

 1ブースあたり90cm×90cmです。私の左肩から右腕を伸ばした指先までが大体90cm。かなり身を乗り出さないと机の向こう側まで手が届かないくらいです。

前回出展時は自分にしてはかなり頑張って用意しました。今回はどのくらい手をかけられるだろうか。あまり難しいことはできないにしても、何か違うことができないだろうか。

世界観、その曖昧なるもの

せっかく広いスペースを使えるのです。この机の上も何か表現の場にならないものか。何か……こう……頒布する本の世界観を見せるような……既刊だと例えば……

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▲新幹線とか……

あと何だろう、ジャム工場とか……寝室とか……押し入れとか……

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北陸新幹線とか……

…………。

走れ新幹線、そして本をアピールせよ

北陸新幹線は、頒布物で言えば再録集の『投げたボールは戻ってくる』に1話書き下ろした話が収録されているだけなのですが、開通への思い入れが強すぎてグッズもいくつか買ってしまいました。

なので(思い入れと言うか材料があるので)この新幹線をブース上に走らせたらどうだ。動きのある机上、いいじゃないか。目立つぞ。

さっそく、家のテーブルで試してみます。まずはレールを敷きます。奥行が70cmしか取れなかったので、実際の机ではもっと複雑なコースを作ることも可能なはずです。さらにトンネルを設置することで北陸新幹線走行中の携帯電波の届かなさ(めっちゃ不便)を表現。もちろんブースなので、とりあえず手元にある既刊も並べてみます。最後に電池を入れた車両を置いて、スイッチオン。

さあ、これでどうだ!

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▲シャ――――――――――――ッ

当然ダメです

想像をはるかに越えてショボい……のは本の並べ方があまりにも雑だったせい、またコース形状がシンプル過ぎたせいだと思いますが、それを別としてもこれはダメです。アウトです。

スイッチオンの瞬間にわかりました。モーター音がうるさすぎます。こんなに鳴るものだったのか。これをイベント会場でやったら、明らかに周囲への迷惑です。要項に「会場内での新幹線の走行禁止」の項目を追加させてしまいます。

そうだよな、実際の新幹線のレールには防音壁があるもんな。ここにはそれがない。あと、たぶん左右に壁があったとしても、机上では上から覗く形になるので、普通にうるさいと思います。最初から無理だったんだ。夢は潰えました。

いつか回転寿司のような即売会を

ところで新幹線で思い出すのは回転寿司です。タッチパネルで注文すると、頼んだお寿司や食べ物が専用レールを通って、新幹線に引かれて走ってくるタイプのお店があります。どうしてそんなことを? と最初は思ったのですが、結構広まっているようです。

今回の目論見は失敗に終わりましたが、今度はどうせなら本が回ればいいのにと思うようになりました。イベント全部に回転寿司システムを導入。会場中にレールが張り巡らされていて、気になる本が回ってきたら取り、お皿の色と数で会計するのです。なかなか回ってこない本は、タッチパネルで注文すると専用レールでシャーッと届く。そのときこそ新幹線、君の出番だ。

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▲本を取ろうとすると遮断機が下りてジャマされる仕組みだけでも作りたかったのですが、誰の得にもならないのでやめました。

最後に躍動感のある既刊紹介でお別れです。ここまでお読みいただきありがとうございました。

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▲当日は当たり障りのないディスプレイでお会いいたしましょう!

「ひっかくは、かみつくは」が気になる

(2016-06-19に一度公開した記事を元に改題・修正・加筆しました)

■「ひっかくは、かみつくは」が気になる

 『よみきかせおはなし絵本(1)』(千葉幹夫編著、平成28(2016)年1月*1成美堂出版)という絵本を見る機会があった。たぬきは海の底に沈み、おおかみは井戸の底に沈み、「ころして しまいました」という文章もあっさり書いてあって、私が親しんだパターンの話より残酷なものも多く、たいへんおもしろかった。
 ところで、この中の1編である「ブレーメンの音がくたい」に気になる文章があった。

ひっかくは、かみつくは、さけぶは、けとばすはで、とても 一人の まじょの しわざとは おもえません。

 引っかかったのは「ひっかくは、かみつくは」等の「は」の部分だ。私の感覚では「ひっかくわ、かみつくわ」となるように思えた。「正しくは、どっちなんだろう」。このときはそう思った。

■まずは「現代仮名遣い」を確認する

 はじめに現代仮名遣いの決まりごとを確認してみたい。そう思って、とりあえずネットで検索すると、すぐに文部科学省のサイトに告示が載っているのが見つかる。便利過ぎて不安になるくらいだ。
 「現代仮名遣い」(昭和61(1986)年7月1日、内閣告示第一号)に、このような記述がある。

第2 特定の語については,表記の慣習を尊重して,次のように書く。
 (中略)
2 助詞の「は」は,「は」と書く。
 (中略)
〔注意〕 次のようなものは,この例にあたらないものとする。
いまわの際 すわ一大事
雨も降るわ風も吹くわ 来るわ来るわ きれいだわ

 「雨も降るわ風も吹くわ」が例外としてある。これに従えば、「ひっかくは、かみつくは」は、やはり「ひっかくわ、かみつくわ」と書くことになるだろう。
 ただ、「これに従えば」の部分は強調しておきたい。「現代仮名遣い」の前書きでは、この告示はあくまで「よりどころ」であるという姿勢が注意深く貫かれている。全文を引用することはしないが、例えばこうある。

3 この仮名遣いは,科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。

 このことについては、後でもう一度書きたい。

■そもそも「は」とは何なのか

 さて、前記の「現代仮名遣い」によれば、「雨も降るわ風も吹くわ」は「助詞の「は」は,「は」と書く」という原則の例外とされている。ということは、「雨も降るは風も吹くは」と書いたときの「は」は助詞ということになる。当たり前じゃないかと言われてしまいそうだが、自分は「この『は』はどういう意味だろう? 主語に付くものとは違うのだろうか?」と首を傾げてしまったのだ。
 不勉強の恥ずかしさに泣きながら辞書を引いてみる。『岩波国語辞典』第七版新版だ。

は〔〔係助〕〕
 (中略)
(キ)《文末・句末に置いて》表現主体の感懐を託して言う。「ああ、その時の、うれしい感情-、飛び立つような心-」「ある-、ある-。びっくりするほどだ」▽述語の省略とも見られ、文語「は」の文末で解決を求める用法に由来する。終助詞「わ」の源。

 ここまで来たので、「終助詞『わ』」も引いておく。

わ〔〔終助〕〕
《活用語の終止形に付く》(1)軽い詠嘆の意を表す。「いいお天気だ-」「降る-降る-」(中略)▽文末に使った係助詞「は」から。

 係助詞「は」から終助詞「わ」が生まれた。皆が知っていることを今さら確認して感心しているだけなんじゃないか、という恐れには目をつぶろう。
 「述語の省略とも見られ、文語『は』の文末で解決を求める用法に由来する」というのがおもしろいと思った。「ああ、その時の、うれしい感情は、飛び立つような心は」*2は、「ああ、その時の、うれしい感情は(いかばかりだったか)、飛び立つような心は(どれほどのものだったか)」などといった文章のカッコ部分を省略した、というような意味でいいだろうか。
 しかしこれで納得した。「雨も降るは風も吹くは」が「は」と書かれることがある理由自体、これまでわかっていなかった。終助詞、つまり文の終わりにつく文字として、「は」なんておかしいじゃないか、くらいに思っていた。元は係助詞「は」から来たのだと知って、やっと腑に落ちた。

■改めて、絵本における「ひっかくは、かみつくは」について考える

 「ひっかくは、かみつくは」に話を戻す。
 私はこれを絵本で見たとき、「正しくは、どっちなんだろう」と思った。もっと露骨に言えば「これは、間違っているのでは?」と考えた。
 この「間違い」とは、何に照らし合わせて「間違い」と言うのか。私の場合は、「学校のテストでこれを書いたら間違い」ではないか、という感覚だ。
 「現代仮名遣い」の告示と同じ日に「学校教育における『現代仮名遣い』の取扱いについて」(昭和61(1986)年7月1日、文初小第二四一号)という通知が出されている。

一 小、中、高等学校における現代仮名遣いの指導については、原則として、この告示によるものとすること。

 よって、やはり学校では「雨も降るは風も吹くは」ではなく「雨も降るわ風も吹くわ」と教えるのが原則であり、教科書であれば「ひっかくは、かみつくは」という文章は「ひっかくわ、かみつくわ」と書くべきだろう。
 しかし、絵本は教科書ではない。
 絵本が教材として扱われる場合があるのは否定できない。「ひっかくは、かみつくは」という表記に親しんだ幼児が、後に学校で「ひっかくわ、かみつくわ」が正しいと教わることで混乱する恐れを指摘することも可能だろう*3
 ただ、基本的には、絵本は一つの作品である。作者は意思や意図をもって「ひっかくは、かみつくは」と書いている。繰り返すが、「現代仮名遣い」はあくまで「よりどころ」であり、「科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」。
 「ひっかくは、かみつくは」という書き方に対して言えるのは、「学校で習う書き方とは違う」というところまでである。少なくとも安易に「正しい」「間違っている」と言うことは避けるべきだろう。後は読む人それぞれの受け止め方次第である。私はここまで調べたことで、ようやく少しすっきりした。

*1:出版社のサイトによればこの本が出版されたのは2002年7月である。実際に手にした本のカバーに刷られていた発行日は2016年1月だった。

*2:この文章の出典が気になったが、残念ながらわからなかった。他の用例も山ほどあると思うのだが、探そうとするとなかなか見つからない。歯がゆい。

*3:ただ今回取り上げた絵本が「よみきかせ」をタイトルに冠したものであることは念のため再び記しておく。