飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

三好達治「雪」のこと

 人の帰りを待ちつつ部屋の片付けをしていたら、ふいに三好達治の詩「雪」のことを思い浮かべた。パソコンの電源が入れっぱなしだったので、何気なく検索窓に入れてEnterを押した。次の瞬間、意表を突かれた。
 というのは、私は「太郎」と「次郎」は〈同じ村に住む青年〉というイメージを抱いていたからだ。主流の解釈は――〈幼い兄弟〉、みたいですね。

 私の描いていた「雪」の情景は、こうだ。
 雪降る山間の村。茅葺屋根、と言うより合掌造りだろうか。家々が寄り添うように建っており、その数は二十軒に満たない*1
 太郎と次郎は、この村で生まれ育った青年。年の頃は二十歳前後だろうか。兄弟ではない。幼馴染かもしれない。村には若い人間が少ない。
 冬の農村である。朝は早くから雪かきをし、昼は春に向けて農機具の手入れなどしているのだろう。太郎や次郎のような若者は、特に力仕事に精を出しているはずだ。
 夜になる。冬の夜は訪れが早く、いっそう暗い。早々に夕餉を終え、人々は布団を敷いて眠る。外では、水分を多く含んだぼた雪が、間断なく降り続いている。ぼんやり眺めているとゆっくり降っているように見えるのだが、目で追おうとすると意外に勢いよく落ちていることがわかる。
 視点は空に移動して、村を見下ろす。
 あちらの屋根の下には、太郎がいる。こちらの屋根の下には、次郎がいる。その隣の屋根の下にも、そこから離れた屋根の下にも、それぞれ人がいて、眠っている*2。そしてどの家の屋根にも、等しく雪は降り積もる。

 そういえば、「太郎」と「次郎」を「眠らせ」たのは誰(何)か、という問題もあったのだった。
 正直なところ、私にはこれがどうもわからない。よく言われるように、「雪」だろうとも思う。が、むしろ「雪を降らせているもの」と表現する方が私の感覚にはしっくりくる。「神」という言葉は使いたくない。せめて「天」にしたい。「天から村を見ているもの」が「太郎」や「次郎」を*3眠らせた。
 眠らせるというのは、まず音を消すということだろう。雪には音を吸収する効果があるからだ。また、屋根に積もることで、夜の闇を深くする意味もあるだろう。
 別の点からもう一つ。冬の雪かきは大変な作業だ。かいたそばから雪は降ってくるし、翌朝になれば元の木阿弥である。毎日がその繰り返し。しかしその健康的な疲れは、人をより深く眠らせるものだと言えるのではないか。
 天にあるものは雪を降らせて、日のあるうちは人々を働かせ、日が沈んでからは人々を眠らせる。
 そういうことで、ひとまず、どうだろう。

 さて、文学作品を解釈するときに、作者の来歴や創作時期の状況を追う方法がある。この作品の舞台は当時作者が訪れた××地方であるとか、この人物のモデルは××氏だとかいった検証をするやり方である。
 実は私は、そういうことを調べるのが好きである。ああ、これはあの作品の影響を受けて書かれたのだろうな、これはあの作家への反発だろうな、などと想像を巡らすのが楽しい。
 私は三好達治「雪」をきちんと調べたことがない。だから、作家研究をしている人に聞いてみれば、「太郎」と「次郎」が兄弟だという、より確かな理由もあるかもしれないし、詩の舞台も特定されているかもしれない。そういう論文だって、当然あるだろう。
 「雪」に興味を持った私は、これから論文を読んでみるかもしれない。そうすれば、きっと先行意見に影響されるだろう。腑に落ちることが増えて、「雪」の解釈も変わってくるだろう。
 そうなる前に、ただ詩を読んだときに抱いた印象を、こうして書き残しておくことができてよかった。

 

 ※この記事は過去のダイアリーから転載したものです。