飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

あとまえ(22) 「蛍の光」

   「蛍の光」(『ネームプレートテクトニクス』所収)

 

 日本には私小説の文化があるから、読み手はともすれば主人公の中に作者の姿を探したがる。かく言う自分も、そういう方法に傾きがちな読者である。

 「蛍の光」という話は、もしかしたら私小説のように読まれるかもしれない。しかし実際のところ、主人公と私はあまり似ていない。書き始めたときの意図より、却って自分からは遠ざかったと思う。なお、私はこの話に別の姿で登場している。

 

 田山花袋の「蒲団」*1にしろ、島崎藤村の「新生」*2にしろ、その作品が読まれた最初の理由は、スキャンダルへの興味からではなかったか。創作の手法が斬新だったから――という理由は、決して誤りではないにしても、いかにも後付けらしく感じられる。

 そう考えると、私小説こそ「大衆文学」や「通俗文学」と呼ばれてもいいような気がする。しかし、やはり一般的には「純文学」の枠内に含まれることが多いのだろう。

  「作家」が、「特別な先生」ではなく「普通の人」(と読者が認識するよう)になったとき、その作家の手になる私小説の通俗性はむしろ薄まるのではないか。この反比例を私は興味深く思うのだが、人にはうまく説明できないでいる。

 

 「純文学」は、色と似ているかもしれない。例えば、「赤」を辞書ではどう説明しているか。答えは「血のような色」である。「青」は「よく晴れた日の空の色」。「黄」は「菜の花や向日葵の花の色」*3。 つまり、実例でしか説明できない。

 だから、「純文学とは何か?」と聞かれたときの答え方としては、「『○○』のようなものでしょう」と具体的な作品名を挙げるのが、どうやら本当だと思う。だからこそ、「いや、あんなものは純文学ではない」といった議論がかまびすしくなるのだろうが。

 

 私は、「純文学とは?」と聞かれそうになったら、しっぽを巻いて逃げ出すことにしている。もったいぶっているわけでも何でもなく、本当に答えを持っていないのだ。どうしてもと言われれば適当な作品を並べることはできるが、それは結局、自分にとって違和感の残る嘘になる。

 率直なところ、曖昧に濁しておいた方が都合が良い。私は「純文学」という言葉を「何かそれっぽいものの総称」として便利に使っているところがある。だから、人から「君の書くものは純文学だね」と言われることに抵抗はないけれど、自分の作品について「純文学」だとはあまり称したくない。

 

 議論を吹っ掛けてくるような人は苦手だが、「私の思う純文学とは」と穏やかに語る人の言葉なら聞いてみたいと思う。そこで出てくるのが、「高野聖」でも「雪国」でも「羊をめぐる冒険」でもいい。作家名でもいいだろうし、もっと乱暴に「芥川賞に選ばれた作品が純文学だ」と言う人がいてもいいだろう。具体的であれば、その答えを聞くのはおもしろい*4

 

 中には、「純文学とは、芸術的で、美しく、人生の真実に満ちていて、崇高な作品のことだ」という答え方をする人もいるだろう。これは、ちょっと困る。「赤とは何か?」という問いに対して「激しく、情熱的で、心をかき乱されるような色だ」と答えられても、何も伝わってこない。

 「純文学」という言葉にあまりにも引きずられてしまうのは恐ろしい。「純」の一文字には、どうもそういう魔力が隠れている気がする。だが、それは罠だ。存在しないものを追いかけるのは、ロマンかもしれない。その姿勢を尊く思うことだってある。しかし、その先にあるのはやはり幻だ。亡霊だ。私は、場末のナポレオンになるのはごめんなんだ。

 

*1:主人公は弟子の女性と関係する

*2:主人公は姪と関係し、孕ませる

*3:以上、『大辞林

*4:自分では「曖昧に濁して」おいて、この態度は我ながらずるいぞ。