飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

遺書は一人のためのもの ――夏目漱石「こころ」の記憶

私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。


 夏目漱石「こころ」を読んだ。この話の筋は有名過ぎて、私は自分がかつて「こころ」を読んだことがあったかどうかわからなくなってしまった。 


 「先生の遺書」の一部を学校の授業で習った記憶がある。先生が奥さんに「お嬢さんを私に下さい」と言った箇所だったように思う。

 その頃の私には、これでなぜKが自殺したのかわからなかった。もしテストの紙上で「なぜKは死んだのでしょう?(二十字以内)」と問われたら、「失恋した上に、友人に裏切られたから。」(十八字)と書いていただろう。別にペケはもらわないような気がする。


 メロスに政治がわからぬように、私には恋愛がわからぬ――と、思春期の頑なな思い込みゆえに私は思っていた。実際、失恋したから自殺するというのは、想像の上でもトレースしにくい思考回路だった。女の子は他にもいるし、Kには未来があるではないか、死ぬなんてもったいない、としか思えなかった。今なら、年齢に関係なく、自分にはもう新しい未来は開けないのではないか、という閉塞感を抱くのは少しわかる気がする(ただ、Kが死を選んだ理由を閉塞感とするのはぴんとこない)。つまりその頃の私は、何にでもうがった見方をするくせに、誰もがこの先に未知の可能性を秘めていることについては、疑いを持っていなかったものと見える。


 恋愛以上に私を戸惑わせたのは裏切りだった。友人に裏切られたからといって、なぜ死を選ぶ? Kには先生の他に友人はいなかったというが、それはつまり彼にとって友人というものがさほど重要ではないからではないのか?(これが正しいかはともかく、Kにとって先生だけが無二の大切な友人だったのだ、と考える気持ちは当時の私にはなかった) 友人なんて、妻と違って一生添い遂げなければならないものでもなし、それこそいくらでも替えが利くではないか。

 ――乱暴な論の言い訳になるが、教科書の引用部分やあらすじ紹介だけでは、Kが先生のせいで受けたショックを了解しろと言われても無理があったと思う。昨日「こころ」の全体を一息に読み通して、私はやっとわずかにKの心に寄り添えたと思えた。


 Kはなぜ自殺したのか? それに対する簡潔な答えを私は今も持たない。

 ただ、単なる遊びとして、こんな想像をしてみる。学校で「こころ」を習った頃の私が、「Kは先生に対する復讐のために自殺した。」(十九字)という答えを思い付いていたら? 私はそれをおもしろがって回答用紙に書いていたかもしれない。もしもペケをもらったとしたら、「どうして違うと言えるんですか」と先生に噛みついていただろう。

 今の私ならその説は取らない。死を選んだときのKの心は、もっと穏やかなものだったと思うからだ。少なくともKは先生のために死んだのではない、K自身のために死んだのだ。それに、当時の私が「復讐」という答えを出していたとしたら、それは先生や周りを困惑させるための回答だ。「こころ」という作品に向き合った結果ではない。


 最後に、冒頭で引いた段落をおもしろいと思ったので触れておく。「私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです」というところだ。

 先生は「私」一人のために遺書を書いたという。しかし漱石は、不特定多数の人達が読むものとしてこの「遺書」を書いた。「こころ」は「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」で連載されたのだから。そして現在に至るまで、まさに「何千万といる日本人」に読まれてきた。

 私の好きなある哲学書は、猫が語る形式をとっている。それはその本の内容が、人間が語ってしまうと矛盾するものだったからだ。

 「こころ」の遺書も、例えば「年若い全ての人のために」と書き出されていたら、却って人々の心を打たなかったかもしれない。「私」一人のために書かれたものを、傍から読むから良いのだ。嫌でも聞こえてくる声高の演説より、盗み聞く内緒話の方が興味深い。そういうことだ。


 さて、言うまでもなく、「猫」は漱石にもある。あの猫は、猫でなければ言えないことをどんな風に言っていただろうか? よく覚えていない……どころか、読んでいない可能性すらある。上巻は小五のときに読んだけれど、あれ、下巻はどうだっけ。結末ははっきり知っていても、それこそあまりに有名だから読んだ証拠になりはしない。この際こちらも、今から読んでみようか。