飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

名前のないお菓子

 少し前、Twitterでこんな意味の文言が流れてきた。
「感想とは、その作品から自分が受けた影響を語るものである」
 我が意を得たり、と感じたし、また他人がそれを言ってくれて助かった、という思いもあった。

 私の場合、小説などの同人誌を読んでその作者に感想を伝えようとすると、「おもしろかったです」の言い換えに留まってしまう。これはどちらかというと、御礼に近い気持ちから出ている気がする。
 作品そのものについて語るのはあまり得意でない。その上、「私の読みは作者の意図から外れているのでは?」という恐れが自分を萎縮させる。作者から直接本を買った場合、その恐れはますます大きくなってしまう。
 「作品を読んで自分が感じたこと」を書くと、私の場合は作品論にはならない。どうしても「私」の話、自分語りになる。どうやらそれでもよさそうだ、少なくとも感想の一つの形としては認めてもらえそうだ、という意味で冒頭のツイートを見たときにはほっとしたのだ。

 白昼社から発行された『文藝かんづめ』という、主に詩を収めた合同作品集を読んだ。この本は、前回の文学フリマで私がタイミング悪く入手し損ね、泉由良さんのご厚意で完全版を手に入れることができたものである。
 だから感想をお伝えしたい、できれば喜んでいただきたい、と考えた。喜んで、とは言っても何もむやみに褒めちぎろうというのではない。なるべく誠実に作品をよみ、それに対する感想を述べようと思ったのだ。
 しかし結局、私の感想は独白に終始してしまった。私ができうる限り真剣に感想を書こうとすると、こういう形にしかならないようだ。作者からすれば、読者の自分語りになど興味はないだろうから、その意味では大変申し訳ない。
 前置きがひどく長くなったが、この後に続くのが「私は『文藝かんづめ』を読んでこんなことを思いました」という文章である。

 詩というものがわからない。
 小学校で最初に詩の授業を受けたとき、詩とは『花がきれい』のバリエーションなのだ、という理解をしたことを覚えている。私は、花を太陽に喩えてみては、こういうものなのかなと首を傾げていた。
 小説を書くようになっても、自ら詩を作ってみようと思うことはなかった。

 高校生になって文芸部に入ると、ノルマができた。期日までに規定量の小説、短歌、俳句、そして詩を作らなくてはならない。
 これをきっかけに、短歌を好きになった。俳句も、なかなか「一句浮かんだ」とはいかず作るのには苦労したが、人の作品をおもしろく見られるようになった。しかし詩についてはいつまでも釈然としなかった。
 それでも作らなければならない。私の作る詩は、できそこないの小説であったり、字数の調整に失敗した短歌や俳句であったりした。それでも「いいね」と言われると、ますますわからなくなった。
 詩は最も自由な表現形式だ、と言う人もいた。私にはその自由さがむしろ不自由に感じられた。短歌や俳句なら、一定のルールさえ守っていれば、駄歌・駄句であっても成立はする。しかし、詩を作ろうとしてうまくいかなければ、それは何なのかわからないもの、何でもないものになる気がしたのだ。

 『文藝かんづめ』を読んで思ったのは、これを作った人達は、きっと自分の表現したいことが詩の形で浮かんでくるのだろうな、ということだった。私にはその回路があまり備わっていないようだ。
 小麦粉、砂糖、卵、バターを混ぜてオーブンに入れたとき、クッキーができるのはわかる。ケーキができるのもわかる。だけど詩を作る人達は、決まった名称のない何か甘くていいものを焼いているように私には見えるのだ。それを食べて、おいしいとは思う。だけど名前のないお菓子を前にすると、私はやっぱり戸惑ってしまうのだった。