飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

正しく寄り添うためのメソッド

 ある夜、急な腹痛に襲われてうずくまっている私の隣で、家人はテレビのバラエティ番組を観ながら笑っていた。この説明だけだと家人が単に非道なことになるので、もう少し補足しよう。私は腹痛を起こした。家人は「大丈夫か」と聞いた。私は「もう少し様子を見て、必要そうなら病院の救急に電話してみる」と答えた。それからしばらくした後の、家人の大笑いである。
 痛みに脂汗を流しながら、こう考えた。――私が苦しんでいるのに、その隣で楽しんでいるとはひどいじゃないか。ただ……それなら家人はどうしているべきだと、私は思っているのか?
 「大丈夫か、大丈夫か」と聞き続けてくれた方がよかったのか。「つらいだろうね、かわいそうに」と同情してくれればよかったのか。それは違う。却ってうっとうしいし、何の助けにもならない。
 家人には私の痛みを治すことはできない。ましてや、私は自分から「様子を見る」という判断を下し、それを伝えていた。そうなれば、家人にしてもらえることは、ひとまず何もない。
 だからといって、バラエティ番組を観ることはないだろう。そんなに笑うことはないだろう。ただ……ともう一度問う……それなら家人はどうしているべきだと、私は思っているのか?
 笑うのを我慢していればよかったのか。観ていたのがニュース番組だったら納得できたのか。テレビを観るのではなくて静かに本を読んでいたなら不満はなかったのか。……正直なところ、私はYesと答えてしまいそうだった。家人が何をしていようと、私の状況は特に変わらない。極端な話、歌おうが踊ろうが、身体に響くことはなかっただろう。なのに私は、どちらかといえばニュースを観ていてほしかったのだ。どうせならせめて本を読んでいてほしかったのだ。
 家人からしてみれば、私が苦しんでいるからといって、自分も苦しまないといけない道理はない。全くない。当然、バラエティ番組を観たいときに、横から「私はお腹が痛いから、あなたはニュースを観て神妙にしていろ」と命令される筋合いなどあるわけがない。
 よって、うずくまっている私の隣でテレビを観て笑うという家人の行動には、別に問題がない。了解だ。
 しかしその了解の上で、私は未練がましく心の中で訴えていた。身体を丸めて痛みに耐えているとき、隣から笑い声が聞こえてくると、絶望的になるものだ。近くにいるのに、まるで違う景色を見ているかのように、気持ちが共有できていない。体調のせいで弱った心は、私は世界にひとりきり、という孤独感を植え付けてくる。
 こんなことを言ったら、想像上の家人は呆れたように三度目の問いかけをするだろう。「それなら、自分はどうしているべきだと、君は思っているのか?」。痛みのひいた後になっても、私は答えに窮している。双方の納得できる方法論が、どこかに落ちてないものか。