飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

あとまえ(26) 『吾が子踊る』

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 五十回忌の法要に参列したことがある。お経をあげてもらったあと、法話の頭でこういうことを言われた。
「五十回忌というのは、もう、お祝いなんです」
 亡くなって長い年月が経っても、覚えられていること。参列者には私も含め、故人と直接会わなかった人も多いが、そういう後の世代の人からも、弔われること。こんなにおめでたいことはない、というのだ。

 私が初めてお葬式に出たのは、近所のおじいさんが亡くなったときだ。おじいさんの家の裏庭には、屋根より高い木があった。おじいさんは時々その木に登り、上の方の枝をハサミで刈っていた。私にとってそのおじいさんの死は、木の上から永久に人がいなくなるという意味の出来事だった。

 喪失感に襲われるのは、見慣れた景色から、急に何かがなくなったときだ。はじめから見えていなかったものがなくなっても、心はなかなか劇的には動かない。親しい人が遠くに引っ越せば、否が応でも寂しい。マンモスの絶滅を悲しむためには、想像力が必要だ。

 一万年生きる人は、一万年分の欠落を抱えていくのだろうか。幼いときに失った人の九千九百九十回忌は、はたしてお祝いになるのだろうか。時が流れるだけでは足りない、忘れられなければならない。それなのに、いつまでも忘れられたくないと思いながら、私はこうして生きている。