飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

一茶は一茶の姿を見たか

 お笑い番組を見ていてふと考えた。コントと漫才の違いは何だろう。
 コントで芸人は役を演じる。しかし、漫才でも「ほなお前○○な、俺××やるわ」と言って役に入ることはままある。とすると、その部分は決定的な差ではない。
 しばらく漫才を眺めているうちに、必ずというわけではないが、これかな、と思う点があった。
 コントでは、演者間で世界が完結する。芸人は、相方や架空の人物に向かって話す。対して、漫才にはお客が必要だ。芸人は、まずはお客に向かって語りかける。
 だから、コントの最後は暗転で、世界そのものをシャットダウンすることが多い。それを漫才では、「ありがとうございました」とお客へのお礼で締める。

 俳句と短歌の違いについても考えることがある。短歌ではできて俳句にはできないこと、もしくはその逆はあるか。
 あるとき思い付いたのは、俳句には〈自分〉を詠み込むことができないのでは、ということだった。俳句には、見たものをそのまま切り取ってくるという性質がある。その情景に、当の俳句をひねっている〈自分〉自身の姿を入れることはできないのではないか。
 しかし、ほんのわずか考えただけで反例を見つけてしまった。「やせ蛙まけるな一茶これにあり」である。一茶は「やせ蛙」を見ている。が、この句を浮かべている一茶は「やせ蛙」を見ている「一茶」をさらに俯瞰で見ている。
 同じ一茶の句でも、「我ときて遊べや親のない雀」とは、私の受ける印象は違う。ややこしい言い方になるが、「我ときて」の場合、〈句をひねっている自分自身〉=「我」だと感じる。そのため、〈句をひねっている自分自身〉の見ている情景に、「我」の姿は入ってこない。
 「やせ蛙」の場合、〈句をひねっている自分自身〉≠「一茶」のように私には思えるのだ。〈句をひねっている自分自身〉とは別に「一茶」が存在して、〈自分〉は「一茶」を外から見ている。「一茶」は、〈自分〉でありながら同時に、〈自分〉から独立した情景の一部になっている。
 なぜか、と問われると答えに詰まる。また、人によって印象も異なるだろう。無理に私の感じ方を説明するなら、「一茶」という固有名詞が出てきたことで、客観的な効果が出たからだと思う。しかし「我ときて」も、幼い頃の自分の姿を幻のように目の前に見ていたのかもしれない。
 俳句には〈自分〉を詠み込めない、と断じるのはさすがに早計だ。しかし、短歌と俳句とで〈自分〉の扱い方が異なるのでは、という感触については、時折意識してみたい。