「やるか、死ぬか。」という選択肢が究極のように語られることがあります。死と比べることによって、本気度がはかられるように思われているのかもしれません。
でも、どうでしょう。これはむしろ、問題を単純にしていることにならないでしょうか。「死んでもやりたくない。」または「死ぬくらいなら、やりますよ。」というのは、却って安易な決め方のようです。
本当は、「死ぬかもしれないけど、死なないかもしれない。さて、やるか?」という場合の選択こそが、難しいという意味では究極なのでしょう。そして身の回りにあるほとんどの選択は、「死ぬかもしれないけど、死なないかもしれない。」という前提で行われています。生きている限り、私達はいつでも「死ぬかもしれないけど、死なないかもしれない。」のですから。
死ぬかもしれなかったけど、結局は死なないままに、昨日が終わりました。死ぬかもしれないけど、死なないかもしれない今日が、また来ます。さて、やるか?