飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

銅の卵焼き器を使うということは

 数日迷っていたが、迷い続けるのも好きではないので、思い切って銅の卵焼き器を購入した。
 前の卵焼き器は、テフロン加工が施されていたが、二年ほどでそれが剥がれてしまい、使い物にならなくなっていた。しばらく小径のフライパンで代用していたものの、やはり専用のものが欲しくなった。近くの店で探してみたところ、安いのは良いが今一つピンと来ないものか、やけに高いものしか見当たらなかった。そこで、どうせお金を出すなら……と考えたわけである。
 安いものなら七百円や四百円で十分買えることを思えば、銅の卵焼き器を求めるのは贅沢かもしれない。だが、私が買ったものの値段は二千八百円ほどだ。めったやたらに高いというほどでもない(一万円近くする製品もある)。
 購入を躊躇していたのは、銅製品の手入れができるか心配だったからだ。油をなじませるとか、できた料理を放置しないとか、そういう単純な決まり事の一つ一つを守り続けられるだろうか。自信はない。毎日使うことが手入れになると思って、気楽に、長く使っていければ良いと思う。

 良いものを長く使う、という考え方がある。直せばまだ使える。もったいない。そう言われると、そうした方がいいような気がする。より豊かな生活をしているような気分にもなれる。
 そうして私の周りには、修理の余地がありそうな壊れかけたものが残った。汚れているが捨てがたいものが溜まった。「直せ」「きれいにしろ」「まだ使える」のプレッシャーが、積み重ねられた物々から発せられて、私は自分の居室にいることが苦しかった。
 あるとき――それはある程度自分の自由な裁量でお金を使えるようになった時期と一致していた――気付いた。使い捨てれば良いのだ。古いものを直さなくても、新しいものを買えば良いのだ。
 私はそうした。すると、ずいぶん楽になった。直さなくてはならない、修理に出さなければならないという思いが、こんなにも辛いものだったのかと驚いた。それに比べて、捨てることは実に簡単で、後には何の暗い感情も残らなかった。
 私は捨てる。物を買うときも、短いスパンで考える。駄目になったら捨てればいい。それなのに、銅の卵焼き器を買ってしまった。さて、どうなるだろう? 少なくとも、私は卵焼き器のために苦しむ人生はもうまっぴらだし、卵焼き器だってそんな言いがかりをつけられたらたまったものじゃないだろうな。