飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

別になくてもいいが、

 「小説は、別になくてもいいが、あれば人生が豊かになる」という言説がある。私だったらそんな言い方はしないし、ニュアンスに違和感もあるが、一つのわかりやすい表現だとは思う。

 ところで、前の記事で書いた通り、銅の玉子焼き器を買った。
 今のところ、使い勝手はとてもいい。心配していた手入れも、何とかなっている。
 本当は使い終わりに油を塗ると良いらしいが、それは省いてしまっている。洗剤を使わずに水とスポンジで汚れを落としたあと、ガス火にかけて水気を飛ばし、そのまま置いておく。
 朝、弁当を作るとき、まず最初に玉子焼き器に多めの油をひいて弱火で熱しておく。その間に、卵を溶いて味付けをする。余分な油を拭き取って、卵液を流し込む。
 文章にすると長く見えるが、普通の玉子焼き器を使うときと比べて、油を多く使うくらいで、手間はさほど変わらない。
 何より出来がいい。卵一個分で、弁当に入れるのにちょうどいい大きさの玉子焼きができる。巻くときにちょっともたもたしても、いい焼き色がついてくれる。
 特に、だし巻き卵がうまくできるようになった。焼けてからバットの上で冷ますのだが、前は玉子焼きからだしが浸み出してしまっていた。それが、今は全然出てこない。玉子焼きの中に閉じ込められている感じだ。思い入れのせいかもしれないが、味も前よりおいしく感じる。

 銅の玉子焼き器も、「別になくてもいいが、あれば人生が豊かになる」と言われる類のものだろう。それ一つないからといって、料理ができないということはない。
 よって、小説と銅の玉子焼き器は、同じカテゴリのものだ。

 ある小説――私が自分で書いたものでも、他の誰かが書いたものでも――を一つ、想定してみる。
 もし、私が同じだけの情熱と真剣さをもって、ある小説と銅の玉子焼き器を宣伝したとする。会う人ごとに「あれ、いいよ」と言いふらす。ブログに記事を書く。ツイッターでもこまめに呟く。
 そうしたら、私はきっと、銅の玉子焼き器の方をよりたくさん売ることができるだろうな、という気がしてならないのだ。

 小説の宣伝をするたびに、「こんなやり方でいいのかな」と戸惑う。どうもうまくできている気がしない。何を言えばいいのか困ってしまって、「読んでみてください」のバリエーションを並べるだけになる。
 銅の玉子焼き器の宣伝をするなら、そこまで悩まない。第一、小説をおすすめしようとするときに比べて、文言がすらすらと浮かんでくるのだ。
 小説と銅の玉子焼き器を一緒にするなって? いやいや、その二つは似たようなものであるはずだ。「別になくてもいいが、あれば人生が豊かになる」。ねえ、そうでしょう。