飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

「ひっかくは、かみつくは」が気になる

(2016-06-19に一度公開した記事を元に改題・修正・加筆しました)

■「ひっかくは、かみつくは」が気になる

 『よみきかせおはなし絵本(1)』(千葉幹夫編著、平成28(2016)年1月*1成美堂出版)という絵本を見る機会があった。たぬきは海の底に沈み、おおかみは井戸の底に沈み、「ころして しまいました」という文章もあっさり書いてあって、私が親しんだパターンの話より残酷なものも多く、たいへんおもしろかった。
 ところで、この中の1編である「ブレーメンの音がくたい」に気になる文章があった。

ひっかくは、かみつくは、さけぶは、けとばすはで、とても 一人の まじょの しわざとは おもえません。

 引っかかったのは「ひっかくは、かみつくは」等の「は」の部分だ。私の感覚では「ひっかくわ、かみつくわ」となるように思えた。「正しくは、どっちなんだろう」。このときはそう思った。

■まずは「現代仮名遣い」を確認する

 はじめに現代仮名遣いの決まりごとを確認してみたい。そう思って、とりあえずネットで検索すると、すぐに文部科学省のサイトに告示が載っているのが見つかる。便利過ぎて不安になるくらいだ。
 「現代仮名遣い」(昭和61(1986)年7月1日、内閣告示第一号)に、このような記述がある。

第2 特定の語については,表記の慣習を尊重して,次のように書く。
 (中略)
2 助詞の「は」は,「は」と書く。
 (中略)
〔注意〕 次のようなものは,この例にあたらないものとする。
いまわの際 すわ一大事
雨も降るわ風も吹くわ 来るわ来るわ きれいだわ

 「雨も降るわ風も吹くわ」が例外としてある。これに従えば、「ひっかくは、かみつくは」は、やはり「ひっかくわ、かみつくわ」と書くことになるだろう。
 ただ、「これに従えば」の部分は強調しておきたい。「現代仮名遣い」の前書きでは、この告示はあくまで「よりどころ」であるという姿勢が注意深く貫かれている。全文を引用することはしないが、例えばこうある。

3 この仮名遣いは,科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。

 このことについては、後でもう一度書きたい。

■そもそも「は」とは何なのか

 さて、前記の「現代仮名遣い」によれば、「雨も降るわ風も吹くわ」は「助詞の「は」は,「は」と書く」という原則の例外とされている。ということは、「雨も降るは風も吹くは」と書いたときの「は」は助詞ということになる。当たり前じゃないかと言われてしまいそうだが、自分は「この『は』はどういう意味だろう? 主語に付くものとは違うのだろうか?」と首を傾げてしまったのだ。
 不勉強の恥ずかしさに泣きながら辞書を引いてみる。『岩波国語辞典』第七版新版だ。

は〔〔係助〕〕
 (中略)
(キ)《文末・句末に置いて》表現主体の感懐を託して言う。「ああ、その時の、うれしい感情-、飛び立つような心-」「ある-、ある-。びっくりするほどだ」▽述語の省略とも見られ、文語「は」の文末で解決を求める用法に由来する。終助詞「わ」の源。

 ここまで来たので、「終助詞『わ』」も引いておく。

わ〔〔終助〕〕
《活用語の終止形に付く》(1)軽い詠嘆の意を表す。「いいお天気だ-」「降る-降る-」(中略)▽文末に使った係助詞「は」から。

 係助詞「は」から終助詞「わ」が生まれた。皆が知っていることを今さら確認して感心しているだけなんじゃないか、という恐れには目をつぶろう。
 「述語の省略とも見られ、文語『は』の文末で解決を求める用法に由来する」というのがおもしろいと思った。「ああ、その時の、うれしい感情は、飛び立つような心は」*2は、「ああ、その時の、うれしい感情は(いかばかりだったか)、飛び立つような心は(どれほどのものだったか)」などといった文章のカッコ部分を省略した、というような意味でいいだろうか。
 しかしこれで納得した。「雨も降るは風も吹くは」が「は」と書かれることがある理由自体、これまでわかっていなかった。終助詞、つまり文の終わりにつく文字として、「は」なんておかしいじゃないか、くらいに思っていた。元は係助詞「は」から来たのだと知って、やっと腑に落ちた。

■改めて、絵本における「ひっかくは、かみつくは」について考える

 「ひっかくは、かみつくは」に話を戻す。
 私はこれを絵本で見たとき、「正しくは、どっちなんだろう」と思った。もっと露骨に言えば「これは、間違っているのでは?」と考えた。
 この「間違い」とは、何に照らし合わせて「間違い」と言うのか。私の場合は、「学校のテストでこれを書いたら間違い」ではないか、という感覚だ。
 「現代仮名遣い」の告示と同じ日に「学校教育における『現代仮名遣い』の取扱いについて」(昭和61(1986)年7月1日、文初小第二四一号)という通知が出されている。

一 小、中、高等学校における現代仮名遣いの指導については、原則として、この告示によるものとすること。

 よって、やはり学校では「雨も降るは風も吹くは」ではなく「雨も降るわ風も吹くわ」と教えるのが原則であり、教科書であれば「ひっかくは、かみつくは」という文章は「ひっかくわ、かみつくわ」と書くべきだろう。
 しかし、絵本は教科書ではない。
 絵本が教材として扱われる場合があるのは否定できない。「ひっかくは、かみつくは」という表記に親しんだ幼児が、後に学校で「ひっかくわ、かみつくわ」が正しいと教わることで混乱する恐れを指摘することも可能だろう*3
 ただ、基本的には、絵本は一つの作品である。作者は意思や意図をもって「ひっかくは、かみつくは」と書いている。繰り返すが、「現代仮名遣い」はあくまで「よりどころ」であり、「科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」。
 「ひっかくは、かみつくは」という書き方に対して言えるのは、「学校で習う書き方とは違う」というところまでである。少なくとも安易に「正しい」「間違っている」と言うことは避けるべきだろう。後は読む人それぞれの受け止め方次第である。私はここまで調べたことで、ようやく少しすっきりした。

*1:出版社のサイトによればこの本が出版されたのは2002年7月である。実際に手にした本のカバーに刷られていた発行日は2016年1月だった。

*2:この文章の出典が気になったが、残念ながらわからなかった。他の用例も山ほどあると思うのだが、探そうとするとなかなか見つからない。歯がゆい。

*3:ただ今回取り上げた絵本が「よみきかせ」をタイトルに冠したものであることは念のため再び記しておく。