飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

どこかに絶対的なものさしがあって

 

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「しかし、その測定器の評価が、確かだと云う事は、どうしてきめるのです。」
「それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパッサンの『女の一生』でも載せて見れば、すぐ針が最高価値を指しますからな。」
「それだけですか。」
「それだけです。」

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 どこかに絶対的なものさしがあって、私を100点満点で採点してくれないか、と思うことがある。そういうことを一番考えていたのは、小中学生くらいのときだ。その後、こんな考え方は莫迦莫迦しくて幼稚だ、と思うようになった。それなのに今でも、ふとしたときに「どこかに絶対的なものさしが」と遠い目をしてしまう。

 

 人に褒められるのは嬉しい。しかし苦手でもある。顔を斜めに俯けて、「あ、どうも」と言う以外に、反応の仕方を知らない。これでは却って相手に対して失礼だ、とわかっていても、ついついそうなる。

 別に、気を回さずに「えへへ、ありがとう」と喜べばいいのだ。しかし、子供に囲まれた湯川専務よろしく、突然「うーそーだーよー」と橋板を外されないとも限らない。そんなことはまずありえないのだが、あの悪魔めいた子供達の顔はトラウマとなって私の頭に焼き付いている。私はセガサターン派なのだ。

 

 人に褒められるのが嬉しくないこともある。結局、自分でそれが良いと思っていないと、人にいくら「良い」と評価されたところで本当には喜べない。

 人にけなされるのは案外堪えない。今のところは、自分自身が自分に対する最大で最低の批判者だろう。こんなことばかり、変に確信がある。

 それにしても、自分のやることなしたことに胸を張れたためしなんて、これまでどれだけあっただろうか?

 

 自信がなくて、気持ちの弱ったとき、私はやはり絶対的なものさしを求めてしまう。幻の MENSURA ZOILI が、手元に現れてくれないかと思う。

 そうして、残酷な90点を私に与えて、歩みを止めさせてはくれないか。

 あるいは、優しい0点を私に与えて、あれもこれも諦めさせてはくれないか。