小説を書くのがつらくてはらはら涙をこぼしながら泉のほとりを歩いていると、水の中から波紋とともに現れ出たのは、口元に薄い笑みをたたえた金色の仏像だった。仏像はいかなる種類の斧も手にしてはいなかった。
――あなたよ。
仏像は語りだす。
――小説を書く苦しみはあなたが自ら選び、その渦中に飛び込んだものである。なぜそのように泣くのか。
「これは小説を書くことの苦しみばかりではないのです。わたしが小説に身を捧げるほど、健康は損なわれ、金銭は失われ、友人は去り、家庭が荒れていきます。仏様、これはどうしたことでしょうか」
――仏ではないが、まあいい。それは、人が何もかもは手に入れられないからだ。有限のリソースを、あなたがいいと思うように振り分ければ良い。
「しかし小説を書くならば自分のすべてをそれに捧げるべきではないでしょうか」
――そうしたいと思うならそうすれば良い。小説を書くためには生きている必要がある以上、生活をまるきり切り離すというのは困難だろうが、他の何よりも小説を優先する態度でいなさい。
「そうは言いますが、わたしは健康が欲しいのです。金銭も惜しいのです。友人は大切で、家庭はかけがえのないものなのです」
――ならばそうするのだ。よく歩き、無駄な遊びを慎み、礼を忘れず人と交わり、家族には日々愛情を伝えるのだ。その上で小説を書くなら書けばいいのだ。
「多くの先人は、たいへんな苦しみや犠牲の上に傑作を生んできました。そんなふうに生活を充実させては、つまらない小説しか書けなくなるのではないですか」
――あなたは既に苦しんでいるし、このような問答のためにもう二度とない時間を犠牲にしているし、今でさえ自分の書く小説をつまらないと思っているのだから、それはする必要のない心配である。
「わたしは今のわたしを改めたいのです」
――改めるが良い。
「だからどうすれば良いのかと聞いているのです」
――これまでに言ったことが答えである。
「だから、例えば、じゃあ、わたしはこれまで……」
あなたはさめざめと泣く。
「仏様、白状します。わたしは本当は、ただ楽をしてなおかつ良い小説を書きたいのです。でも、そんな方法はないですよね。こんなことを言っているから、良い小説が書けないのですよね」
仏像ははじめから変わらず口の端をわずかに上げたままで続ける。
――では自分の心の葛藤と向き合うのをやめなさい。葛藤を捨てることについての葛藤も捨てなさい。これでいいのかと問うことをやめなさい。答えを見つけようとすることをやめなさい。それでいて小説を書きなさい。そのようにして小説を書きなさい。
問うことを封じられたあなたは、激しくしゃくりあげながら仏像に言う。
「あなたは正しい、あなたは聡い。まったく、すべておっしゃるとおりです。あなたのお邪魔はしませんから、どうぞこの先、わたしのことは放っておいてください」
そうしてあなたはできる限りの速さで走って逃げ帰る。
あなたの背中を見送った仏像は、おもむろに金色の皮膚を模したマスクをベリベリと剥がす。その下から現れた無表情の顔は、もちろんあなた自身のものなのだった。
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