飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

全く意味の通らない言葉の連なりではないという保証

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小説の巻末にある「解説」が気に食わない、という親しい人がいる。作者本人でもない他人が勝手な「解説」をするのはおかしいと言うのだ。
言っていることは分からなくはない。ただ彼も、好きな作品に関する他人の解釈をインターネットで検索しては、面白がったり感心したりしている。それらだって果たす役割は「解説」と似たようなものではないのだろうか。
「解説」そのものの内容に不満があると言うよりは、ある一人の読者の文章が、作品自体と同じ本に収録されていることによって、公認めいた扱いを受けている(ように見える)ということ。まるで正解である(ように見える)ということ。
彼が持つ不服さの出どころは、そのあたりだろうか。

新しく作った『飛び降りていないことの証明』という小説集に解説を書いてもらった。お願いしたのは、前に合同誌を一緒に作り、今回もさまざまな面で協力していただいた津和野ヒトリさんである。
津和野さんは普段からあれこれと論じ慣れている方で、そういう人に「私の小説についても何か書いてよ」と頼むのは、厚かましいと言うより、もはやダサいのではないかという気すらする。しかし私はそれを必要とした。

何しろ素人の書く小説である。何が書いてあるか知れたものではない。面白いとかそうでないとかいう以前の問題だ。無作為にギリシャ文字を並べて成立させた本だって存在する。そういうことをしたいというのならともかく、そうではないのだ。
この本の中身が全く意味の通らない言葉の連なりではないという保証が欲しかった。

素人だということの強みで言うなら、実のところその辺の問題は、自身の自信で大体解決できるものだと思う。これでいいのだ、と言い切れば、これでいいのだ。
しかしその自信こそが私にはない。
自信が全然ないまま同人活動をしようというのは、結構な無茶だ。
だから助けてもらった。自分ではどうしていいか分からなくて身動きが取れないときに、他の人がいてくれるというのは何てありがたいことだろう。

当たり前過ぎてここまで書き落としていたことを付記しておこう。
津和野さんの解説は、この本を読んで感想を抱くときの拠り所に、きっとなってくれるだろうと思う。

私が解説を頼むときにお願いしたのは「できれば長めに書いてください」ということだった。津和野さんは見事に長めに書いてくれた。しかもそれは程良い長さだった。
私が書いた本文の分量を超えるような極端に長大なものになっても、それはそれで面白くてありだな、という想像はしていた。
それと同時に、津和野さんはどういう形であれうまい具合にやってくれるだろう、とも思っていた。
とてもうまくいった。おかげで本ができた。「解説」は誰よりまず先に作者のために必要だった。

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