飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

お肉を1キログラム食べたい

 お肉を1キログラム食べたい。
 ――と思うことがときどきある。大体、お腹よりは気持ちが、何となく満たされていないときだ。
 私はこれまで、1キログラム食べたい、ようし食べよう、と意気込んでレストランに行っては、そのグラムあたりの値段におののき、120グラムのハンバーグを食べてすごすごと引き下がってきた。

 しかしやっと気付いたのだ。私は料理をやらないわけじゃない。自分で肉を買ってきて、調理すればいいのだ。そうすれば、外と食べるのに比べてはるかに安く済むし、好みの味付けで食べられる。
 さっそくスーパーに行った。牛肉にしようか、それとも豚肉と取り混ぜた方が楽しいだろうか。しかし目についたパックがあった。〈国産鶏むね肉1キロ498円〉。これを買えば簡単だ、と思ってしまった。おまけに安い。外食するよりは安いのだからケチらないでおこうと思ったのに、生来の貧乏性がどうしても抜けなかった。

 家に帰って、1キログラムの鶏肉をボウルにあける。むね肉4枚分だ。こうして見ると、意外と少ない。これなら誰にも分けることなく、一人で食べられそうだ。
 まずは、全体を塩で揉んで、冷蔵庫に寝かしておく。安い肉なので、身を締めようと思ったのだ。一晩置いて塩抜きをしたら、調理開始だ。
 最初に鶏皮だ。好きなのだが、包丁で切るときに面倒だ。そこで、4枚分を一気に外して、弱火にかけたフライパンにのせた。これで鶏皮せんべいにする。
 その間に、4枚分のむね肉の調理をする。せっかくだから、4種類の料理にするのがいいだろう、と考えた。そして、自分1人で食べるのだから、家人の苦手な味付けにしてしまうのがいい。

 まず1枚目は、塩、コショウ、バジル、レモン汁でマリネした。これを後でバターソテーにするつもりで漬け込んでおく。

 次の2枚目は、タンドリーチキンにしようと思った。ここぞとばかりに、普段家人を気にして使えないでいるスパイスをたっぷり入れてしまうのだ。ヨーグルト、塩、コショウ、カレー粉、にんにく、しょうがを合わせたものに、一口大に切った肉を漬ける。
 そこでふと、どうせならインド風カレーにしようと思い付いた。方針転換だ。深めのフライパンにトマト缶の中身を空け、沸騰したところに2枚目の肉をヨーグルト液ごと加える。これを煮込んだら牛乳を足し、バター、鶏ガラスープ、塩で味を調えて、バターチキンカレーのできあがりだ。

 煮込んでいる間に3枚目に挑む。さっきのカレーから連想がはたらき、クリームシチューを食べたいと思った。タマネギ、ニンジン、ジャガイモと一口大のむね肉を炒める。冷凍庫に豚ひき肉があったなと思い、それも入れてしまう。これで1キロ強の肉になるな、と思いながら水を足して煮る。

 しかしこのあたりで、困ったことに気が付いた。せっせと料理をしているうちに、気持ちが満足し始めたのだ。肝心の肉をまだ一口も食べていない。これでは計画倒れになってしまう。ちょうど鶏皮せんべいがいい焼き色になってきた。とりあえず食べてしまおうと、皿に取って口に入れた。
 これが追い打ちになった。過剰なほどの脂と塩気が、偽りの満腹感を伝えてくる。鶏皮はおいしかった。しかしまだ肉は漬け込んでいる、煮込んでいる、味付けされるのを待っている。

 4枚目の鶏肉を前に、包丁を握る。食べたいものが思い付かない。とりあえず一口大に切る。まだインスピレーションがわかない。塩を少々振る。オリーブオイルで揉む。手が止まる――。
 私は振り返り、棚に手を伸ばした。そしてジッパー付きのビニール袋を取り出し、今切ったばかりの肉を放り込んで封をして、冷凍庫に入れた。
 同じく、レモンのマリネ液に浸けていた肉も、液ごと袋へ。バターチキンカレーも、2食分に分けて冷凍。クリームシチューなら家人も食べるから、ルーを入れたらそのまま今日の夕飯にしてしまおう。

 お肉を1キログラム食べたいなら、必要なお金を握りしめて、おいしいお店に行って躊躇なく注文するのが良い。ドントシンク、フィール。ちまちま料理なんかしていたら、どこか見当外れな部分が満足して、首を傾げながら終わることになる。注意するべし。

雑念を退ける

何かを行おうとしても、雑念が湧いてくる。
集中できない。
そういうとき、どうすればよいのか。

例えば、「死ぬべきだ」という念が起こったとする。

反射的に、「いや、死ぬべきではない」と否定する。
だが、「死ぬべきだ」の思いは攻撃を緩めない。
「死ぬべきだ」
「死ぬべきではない」
「死ぬべきだ」
「死にたくない」
「死ぬべきだ」
「死なない」
戦いは止まず、不毛なままで、
本来手を付けるはずだった仕事からは離れていく一方だ。
だから雑念と争ってはならない。

気付きを入れる、という瞑想の手法を聞いたことがある。
「死ぬべきだ」と頭の中に浮かんだら、「雑念」とだけ考える。
「死ぬべきだ」の意味に真っ向から挑むことはせず、
ただただ「雑念だ」「雑念が起こった」とだけ思うようにする。
やってみた。が、なかなか難しい。
頭の中がざわめいて、静かになることがない。
「雑念」から無への引き継ぎがうまくいかない感覚だ。

いっそ受け入れてみたらどうだろう、と思いついて、試してみた。
死ぬべきだ。
そうだ、死ぬべきだ。
私は死ぬべきだヽヽヽヽヽヽヽ
繰り返す。
死ぬべきだ。
水面のイメージが浮かぶ。
さざなみが静まっていく。
平らかになりかけた水面の真ん中に、重たいものが落ちてくる。
激しい水しぶき。
大きく波打った水が、しかしやがては収まってきて、
今度こそ目に映るあらゆる動きが消えていく。

これ以上は危ない気がしてやめた。
私の頭にはまだ雑念が住みついている。

あとまえ(26) 『吾が子踊る』

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 五十回忌の法要に参列したことがある。お経をあげてもらったあと、法話の頭でこういうことを言われた。
「五十回忌というのは、もう、お祝いなんです」
 亡くなって長い年月が経っても、覚えられていること。参列者には私も含め、故人と直接会わなかった人も多いが、そういう後の世代の人からも、弔われること。こんなにおめでたいことはない、というのだ。

 私が初めてお葬式に出たのは、近所のおじいさんが亡くなったときだ。おじいさんの家の裏庭には、屋根より高い木があった。おじいさんは時々その木に登り、上の方の枝をハサミで刈っていた。私にとってそのおじいさんの死は、木の上から永久に人がいなくなるという意味の出来事だった。

 喪失感に襲われるのは、見慣れた景色から、急に何かがなくなったときだ。はじめから見えていなかったものがなくなっても、心はなかなか劇的には動かない。親しい人が遠くに引っ越せば、否が応でも寂しい。マンモスの絶滅を悲しむためには、想像力が必要だ。

 一万年生きる人は、一万年分の欠落を抱えていくのだろうか。幼いときに失った人の九千九百九十回忌は、はたしてお祝いになるのだろうか。時が流れるだけでは足りない、忘れられなければならない。それなのに、いつまでも忘れられたくないと思いながら、私はこうして生きている。

わくドキモノクロセットレポ

 今回の本を作るときに、プリントオンのわくわくドキドキモノクロセットを利用しました。本の用紙や加工を印刷所さんにおまかせするもので、一度やってみたかったのです。
 装丁道楽というわけではなく、むしろノーアイディアで、自分で仕様を決めかねたので、えいやっと頼んでしまいました。
 変型本のため、事前に「わくドキセットは適用できますか?」と問い合わせたところ、「可能ですが、使える加工が限られてしまいます」とのお返事をいただき、それでも構わないということで発注しました。
 用意した表紙の図柄は、自分で撮った写真をAzPainter2でグレイスケール→油絵風に加工し、タイトルを入れただけの簡単なものです。これがどんな見栄えになるのでしょうか。

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 どきどき……。

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 おお、思った通りの形の本になってる。
 でも、あれ、印刷は意外に普通?
 普通の白い紙に、普通の黒インクで刷ってあるだけ?
 とりあえず一冊手に取ってみると……。

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 あっ、触った感じが何か変! ぺとっとする。
 ツルツルともザラザラとも違う、手に吸い付くような感触です。最初に「変!」と言ってしまいましたが、慣れてくると癖になりそうな手触りで、薄い本をちょっとリッチに感じさせてくれます。
 こういう紙なのかと思いましたが、ベルベットPPという加工だそうです。

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 めくってみると、表紙の裏が黒色です。光沢が強く、遊び紙の柄が反射しています。
 見返しの紙を貼ったのかと思ったら違いました。表紙そのものが、表面の黒い用紙をわざと裏返しに使って作られたものでした。つまり、普通の白い紙に見えた表紙は、実は黒い紙の裏面だったのです。凝った仕様!

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 遊び紙は、さりげなくめでたい雰囲気の、ざらっとした紙に金と銀の糸がランダムに織り込まれたもの。
 今回は二冊組の本なので、同じ種類の遊び紙でも、それぞれ表情が異なって見えるのが嬉しいです。

 これは偶然、と言うより私の側での思い込みですが……この本は「死んでから後、生まれる前。」というテーマで作られています(このテーマも割とこじつけですけども)。そういう本の表紙をめくったところに、冷たい黒と華やかな金銀のページが向かい合い、しかもその黒の中に金銀の糸が映り込んでいるというのは、なかなか素敵なんじゃないでしょうか。

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 本文用紙はコミック紙ホワイトです。いつも小説本のときは淡クリームキンマリ72.5kgを選ぶので、新鮮。やや厚みがある感じ? 白が目に痛いということもありません。読みやすいです。

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 裏表紙裏も、もちろん真っ黒です。顔が映りそうです。

 見た目に派手だったり豪華だったりということはないのですが、めくったときに驚きのある、おもしろい本に仕上げていただきました。隠れたところにぜいたくさが盛り込まれているつくりは、私の好みにも、またこの本にも合っていると思います。わくドキセットで頼んでよかったです。
 ただ、この本は当面イベント売りの予定がなく、通販のみで取り扱う予定なのです。よって「お気軽に見本をご覧くださいね」と言うことができません。よりによって、外観写真だけでは普通の白黒印刷にしか見えない本が!
 なのでこうして、言葉を尽くして、この本を手にしたときの感動を記してみました。少しでも伝わったでしょうか?

 最後に、本と共に封入されていた装丁内容のメモを書き写しておきます。

表紙:LKカラー黒180K(リバーシブル、ベルベットPP)
本文:コミック紙ホワイト
遊び紙:てまり金・銀(前のみ)
加工:変型断裁

 ※変型断裁は、セット外の特殊加工として自分で指定したものです。

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 この本、『吾が子踊る』は、死と生の間を描いた作品集です。小説編と詩歌編の二冊組。詳しくはこちらのリンク先をご覧ください
 11月14日(金)より架空ストアで販売開始です。どうぞよろしくお願いいたします。

共有の弊害

 これだけ無数の人と感想が共有できるようになっちゃうと、作り手にとってはハードルが上がるというのを越えて、もはや辛いものがあるんじゃないか。
 特に連載物やシリーズ物をやっている人は大変そうだ。例えば連載のミステリ漫画を想定してみる。作者が渾身のトリックを仕掛けた。読者が100人いたとして、1人しか解けないようなものだったとする。でもその1人が「こうじゃない?」とネットに書き込めば、10人だか20人だかはそれを見た上で、後日の解答編を待つことになる(読後に「作品名+感想」「作品名+考察」で検索をかける人は何割くらいいるのだろう?)。もしもそれで「意外と簡単だった」などと思われたらたまらない、と私は思ってしまう。
 新作が遅れに遅れているシリーズ物の小説の話を聞くと、もう読者に先の展開を予測されすぎて続きが書けなくなっているんじゃないか、と勘ぐってしまう。こんな考え方は作者を莫迦にしていることになるのかもしれない。が、読者の1人として予想できない展開を作れる作者がどれだけいるだろう。100人のうちの1人には見抜かれるけれど、99人を驚かすことのできる話なら、それはそれで十分じゃないか。その芽が摘まれているとしたら、窮屈過ぎるし、もったいないな。

正しく寄り添うためのメソッド

 ある夜、急な腹痛に襲われてうずくまっている私の隣で、家人はテレビのバラエティ番組を観ながら笑っていた。この説明だけだと家人が単に非道なことになるので、もう少し補足しよう。私は腹痛を起こした。家人は「大丈夫か」と聞いた。私は「もう少し様子を見て、必要そうなら病院の救急に電話してみる」と答えた。それからしばらくした後の、家人の大笑いである。
 痛みに脂汗を流しながら、こう考えた。――私が苦しんでいるのに、その隣で楽しんでいるとはひどいじゃないか。ただ……それなら家人はどうしているべきだと、私は思っているのか?
 「大丈夫か、大丈夫か」と聞き続けてくれた方がよかったのか。「つらいだろうね、かわいそうに」と同情してくれればよかったのか。それは違う。却ってうっとうしいし、何の助けにもならない。
 家人には私の痛みを治すことはできない。ましてや、私は自分から「様子を見る」という判断を下し、それを伝えていた。そうなれば、家人にしてもらえることは、ひとまず何もない。
 だからといって、バラエティ番組を観ることはないだろう。そんなに笑うことはないだろう。ただ……ともう一度問う……それなら家人はどうしているべきだと、私は思っているのか?
 笑うのを我慢していればよかったのか。観ていたのがニュース番組だったら納得できたのか。テレビを観るのではなくて静かに本を読んでいたなら不満はなかったのか。……正直なところ、私はYesと答えてしまいそうだった。家人が何をしていようと、私の状況は特に変わらない。極端な話、歌おうが踊ろうが、身体に響くことはなかっただろう。なのに私は、どちらかといえばニュースを観ていてほしかったのだ。どうせならせめて本を読んでいてほしかったのだ。
 家人からしてみれば、私が苦しんでいるからといって、自分も苦しまないといけない道理はない。全くない。当然、バラエティ番組を観たいときに、横から「私はお腹が痛いから、あなたはニュースを観て神妙にしていろ」と命令される筋合いなどあるわけがない。
 よって、うずくまっている私の隣でテレビを観て笑うという家人の行動には、別に問題がない。了解だ。
 しかしその了解の上で、私は未練がましく心の中で訴えていた。身体を丸めて痛みに耐えているとき、隣から笑い声が聞こえてくると、絶望的になるものだ。近くにいるのに、まるで違う景色を見ているかのように、気持ちが共有できていない。体調のせいで弱った心は、私は世界にひとりきり、という孤独感を植え付けてくる。
 こんなことを言ったら、想像上の家人は呆れたように三度目の問いかけをするだろう。「それなら、自分はどうしているべきだと、君は思っているのか?」。痛みのひいた後になっても、私は答えに窮している。双方の納得できる方法論が、どこかに落ちてないものか。

Nothing happened.

 小説を書くときに、不自然なところを取り払っていこうと考える。不自然な状況、不自然な会話、不自然な展開。省いて省いて、自然な部分だけを残そうとする。
 そうしてできあがった小説は、ついに何も起こらずに終わる。
 それでもなお良い小説であることはありえるだろうが、それには相当な力が必要だ。
 だから今は、不自然さをどのように描くのがいいのか、そういう風に考えたいと思っている。