飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

禁酒番屋

 図書館から落語のCDを借りてきて流していた。林家たい平の「禁酒番屋」。
 筋を忘れて聞き始めたが、だんだん思い出してきた。ああ、これは確か"下"の落ちなんだよなぁ、と。そういう展開が苦手な私は、確実にその結末へと向かっていく噺に、眉をひそめた。しかしその落ちは、私が気構えていたほどの演出ではなく、案外あっさり終わった、という印象を受けた。
 もっとこってり意地悪く演じることもできそうだが、そこのさじ加減が噺家次第なのだろうなぁ、と想像する。それによって、"下"の噺でも、品良くなったり、子供っぽくなったり、ひたすら気持ち悪くなったりするのだろう。
 他の人が演じる「禁酒番屋」も聞いてみたくなった。しかしそれは、"下"を探して聞くということで、何だかなぁと尻込みしてしまうのである。

新しいキーボードがやってきた

 「やってきた」と言っても自分で注文していたのである。iPhoneに外部キーボードから文字入力したい場面があり、Bluetoothで接続できるものを探して購入した。
 機械だかガジェットだか、ハードだかソフトだか、とにかくそういうものには詳しくない。使えないものだけは買わないように、一応、あらかじめネット検索だけはした。
 WindowsiOSとでは入力の仕方が違うとか、だからファンクションキーのショートカットは使えないとか、予測変換はじゃまになるとか(個人的にはiPhoneの予測変換もオフにしたい)、そういう予備知識を仕入れていく。一番の懸念は、かな入力のことだった。ローマ字入力に対するかな入力のことで、私はいつもそれで打っているからだ。しかしそれについての情報は検索してもあまり見つからなかった。
 さて品物が届いたのが今日である。接続は簡単だった。打鍵感も悪くない。心配していたかな入力の設定も、問題なくできた。事前に聞いていた打ちにくさはあるが、なかなか快適だなぁと思いながら試し打ちしているうちに、あれ、と思った。打てない文字があるのだ。
 「へ」をタイプしても出ない。しかし「む」をタイプすると「へ」が表示される。半濁点の付け方がわからない。かぎかっこと長音の入力方法がわからない。
 まいってしまう。「キーボード」という単語すら、予測変換に頼らないと出せない。個別の事例を入力して改めて検索すると、キーの配置が違うことがわかった。しかもよくわからない違い方だ。中でも「゜」「む」「へ」はそれぞれキーがあるのに一つずつずれて配置されているのが解せない。「Shift+け」で「ろ」が表示されるなんて想像もしなかった。
 全ては慣れによって解決する、と構えておけばいいのだろう。配置のずれるキーにはシールを貼った。手習いを始めたばかりのようで割と楽しい。
f:id:sweet_darling:20150211224334j:plain

一茶は一茶の姿を見たか

 お笑い番組を見ていてふと考えた。コントと漫才の違いは何だろう。
 コントで芸人は役を演じる。しかし、漫才でも「ほなお前○○な、俺××やるわ」と言って役に入ることはままある。とすると、その部分は決定的な差ではない。
 しばらく漫才を眺めているうちに、必ずというわけではないが、これかな、と思う点があった。
 コントでは、演者間で世界が完結する。芸人は、相方や架空の人物に向かって話す。対して、漫才にはお客が必要だ。芸人は、まずはお客に向かって語りかける。
 だから、コントの最後は暗転で、世界そのものをシャットダウンすることが多い。それを漫才では、「ありがとうございました」とお客へのお礼で締める。

 俳句と短歌の違いについても考えることがある。短歌ではできて俳句にはできないこと、もしくはその逆はあるか。
 あるとき思い付いたのは、俳句には〈自分〉を詠み込むことができないのでは、ということだった。俳句には、見たものをそのまま切り取ってくるという性質がある。その情景に、当の俳句をひねっている〈自分〉自身の姿を入れることはできないのではないか。
 しかし、ほんのわずか考えただけで反例を見つけてしまった。「やせ蛙まけるな一茶これにあり」である。一茶は「やせ蛙」を見ている。が、この句を浮かべている一茶は「やせ蛙」を見ている「一茶」をさらに俯瞰で見ている。
 同じ一茶の句でも、「我ときて遊べや親のない雀」とは、私の受ける印象は違う。ややこしい言い方になるが、「我ときて」の場合、〈句をひねっている自分自身〉=「我」だと感じる。そのため、〈句をひねっている自分自身〉の見ている情景に、「我」の姿は入ってこない。
 「やせ蛙」の場合、〈句をひねっている自分自身〉≠「一茶」のように私には思えるのだ。〈句をひねっている自分自身〉とは別に「一茶」が存在して、〈自分〉は「一茶」を外から見ている。「一茶」は、〈自分〉でありながら同時に、〈自分〉から独立した情景の一部になっている。
 なぜか、と問われると答えに詰まる。また、人によって印象も異なるだろう。無理に私の感じ方を説明するなら、「一茶」という固有名詞が出てきたことで、客観的な効果が出たからだと思う。しかし「我ときて」も、幼い頃の自分の姿を幻のように目の前に見ていたのかもしれない。
 俳句には〈自分〉を詠み込めない、と断じるのはさすがに早計だ。しかし、短歌と俳句とで〈自分〉の扱い方が異なるのでは、という感触については、時折意識してみたい。

私がトラックの運転手だった頃

 私がトラックの運転手だった頃、いつか人を死なせるのではないかという恐怖に苛まれ、発進のたびにでたらめな十字を切っていた。そうして日々、初めての道をぐんぐん進み、バックで細い路地に入っていた。
 その仕事を辞めてからは車を運転しなくなった。そもそも所有していなかったのだが、やがて家人の都合でやむを得ず購入した。普通乗用車はトラックに比べてずいぶんミラーが小さく、私にはひどく運転しにくかった。自宅に駐車するのも怖く感じ、ますます車から離れるようになった。
 車を買ってから半年ほどで、家人はそれを必要としなくなってしまった。以後の走行距離は、月に十キロから二十キロというところではなかったか。それでも駐車場代を払ったり、自動車税を払ったり、車検の見積もり金額に卒倒したりした。
 もう手放してしまえ、と正直なところ思っている。今時、カーシェアだってできるじゃないか。これではあまりにも不経済だ。だが、「これからもっと乗るかもしれない」と言われてしまった。しぶしぶながら、きっとそうなるのだろう、とは私も思っている。
 そして、どうせ持っているなら乗るべきなのだ。その分ガソリン代もかかってくるだろうが、車検で「あまりに使っていないのですっかり傷んでしまいました」という部品の交換代に取られるよりはましに感じる。私もまた毎日十字を切って車に乗ればいい。どこかで判断が狂ってしまった、何かが間違っている、と思いながらハンドルを握ればいいのだ。

お肉を1キログラム食べたい

 お肉を1キログラム食べたい。
 ――と思うことがときどきある。大体、お腹よりは気持ちが、何となく満たされていないときだ。
 私はこれまで、1キログラム食べたい、ようし食べよう、と意気込んでレストランに行っては、そのグラムあたりの値段におののき、120グラムのハンバーグを食べてすごすごと引き下がってきた。

 しかしやっと気付いたのだ。私は料理をやらないわけじゃない。自分で肉を買ってきて、調理すればいいのだ。そうすれば、外と食べるのに比べてはるかに安く済むし、好みの味付けで食べられる。
 さっそくスーパーに行った。牛肉にしようか、それとも豚肉と取り混ぜた方が楽しいだろうか。しかし目についたパックがあった。〈国産鶏むね肉1キロ498円〉。これを買えば簡単だ、と思ってしまった。おまけに安い。外食するよりは安いのだからケチらないでおこうと思ったのに、生来の貧乏性がどうしても抜けなかった。

 家に帰って、1キログラムの鶏肉をボウルにあける。むね肉4枚分だ。こうして見ると、意外と少ない。これなら誰にも分けることなく、一人で食べられそうだ。
 まずは、全体を塩で揉んで、冷蔵庫に寝かしておく。安い肉なので、身を締めようと思ったのだ。一晩置いて塩抜きをしたら、調理開始だ。
 最初に鶏皮だ。好きなのだが、包丁で切るときに面倒だ。そこで、4枚分を一気に外して、弱火にかけたフライパンにのせた。これで鶏皮せんべいにする。
 その間に、4枚分のむね肉の調理をする。せっかくだから、4種類の料理にするのがいいだろう、と考えた。そして、自分1人で食べるのだから、家人の苦手な味付けにしてしまうのがいい。

 まず1枚目は、塩、コショウ、バジル、レモン汁でマリネした。これを後でバターソテーにするつもりで漬け込んでおく。

 次の2枚目は、タンドリーチキンにしようと思った。ここぞとばかりに、普段家人を気にして使えないでいるスパイスをたっぷり入れてしまうのだ。ヨーグルト、塩、コショウ、カレー粉、にんにく、しょうがを合わせたものに、一口大に切った肉を漬ける。
 そこでふと、どうせならインド風カレーにしようと思い付いた。方針転換だ。深めのフライパンにトマト缶の中身を空け、沸騰したところに2枚目の肉をヨーグルト液ごと加える。これを煮込んだら牛乳を足し、バター、鶏ガラスープ、塩で味を調えて、バターチキンカレーのできあがりだ。

 煮込んでいる間に3枚目に挑む。さっきのカレーから連想がはたらき、クリームシチューを食べたいと思った。タマネギ、ニンジン、ジャガイモと一口大のむね肉を炒める。冷凍庫に豚ひき肉があったなと思い、それも入れてしまう。これで1キロ強の肉になるな、と思いながら水を足して煮る。

 しかしこのあたりで、困ったことに気が付いた。せっせと料理をしているうちに、気持ちが満足し始めたのだ。肝心の肉をまだ一口も食べていない。これでは計画倒れになってしまう。ちょうど鶏皮せんべいがいい焼き色になってきた。とりあえず食べてしまおうと、皿に取って口に入れた。
 これが追い打ちになった。過剰なほどの脂と塩気が、偽りの満腹感を伝えてくる。鶏皮はおいしかった。しかしまだ肉は漬け込んでいる、煮込んでいる、味付けされるのを待っている。

 4枚目の鶏肉を前に、包丁を握る。食べたいものが思い付かない。とりあえず一口大に切る。まだインスピレーションがわかない。塩を少々振る。オリーブオイルで揉む。手が止まる――。
 私は振り返り、棚に手を伸ばした。そしてジッパー付きのビニール袋を取り出し、今切ったばかりの肉を放り込んで封をして、冷凍庫に入れた。
 同じく、レモンのマリネ液に浸けていた肉も、液ごと袋へ。バターチキンカレーも、2食分に分けて冷凍。クリームシチューなら家人も食べるから、ルーを入れたらそのまま今日の夕飯にしてしまおう。

 お肉を1キログラム食べたいなら、必要なお金を握りしめて、おいしいお店に行って躊躇なく注文するのが良い。ドントシンク、フィール。ちまちま料理なんかしていたら、どこか見当外れな部分が満足して、首を傾げながら終わることになる。注意するべし。

雑念を退ける

何かを行おうとしても、雑念が湧いてくる。
集中できない。
そういうとき、どうすればよいのか。

例えば、「死ぬべきだ」という念が起こったとする。

反射的に、「いや、死ぬべきではない」と否定する。
だが、「死ぬべきだ」の思いは攻撃を緩めない。
「死ぬべきだ」
「死ぬべきではない」
「死ぬべきだ」
「死にたくない」
「死ぬべきだ」
「死なない」
戦いは止まず、不毛なままで、
本来手を付けるはずだった仕事からは離れていく一方だ。
だから雑念と争ってはならない。

気付きを入れる、という瞑想の手法を聞いたことがある。
「死ぬべきだ」と頭の中に浮かんだら、「雑念」とだけ考える。
「死ぬべきだ」の意味に真っ向から挑むことはせず、
ただただ「雑念だ」「雑念が起こった」とだけ思うようにする。
やってみた。が、なかなか難しい。
頭の中がざわめいて、静かになることがない。
「雑念」から無への引き継ぎがうまくいかない感覚だ。

いっそ受け入れてみたらどうだろう、と思いついて、試してみた。
死ぬべきだ。
そうだ、死ぬべきだ。
私は死ぬべきだヽヽヽヽヽヽヽ
繰り返す。
死ぬべきだ。
水面のイメージが浮かぶ。
さざなみが静まっていく。
平らかになりかけた水面の真ん中に、重たいものが落ちてくる。
激しい水しぶき。
大きく波打った水が、しかしやがては収まってきて、
今度こそ目に映るあらゆる動きが消えていく。

これ以上は危ない気がしてやめた。
私の頭にはまだ雑念が住みついている。

あとまえ(26) 『吾が子踊る』

f:id:sweet_darling:20141111115207j:plain
 五十回忌の法要に参列したことがある。お経をあげてもらったあと、法話の頭でこういうことを言われた。
「五十回忌というのは、もう、お祝いなんです」
 亡くなって長い年月が経っても、覚えられていること。参列者には私も含め、故人と直接会わなかった人も多いが、そういう後の世代の人からも、弔われること。こんなにおめでたいことはない、というのだ。

 私が初めてお葬式に出たのは、近所のおじいさんが亡くなったときだ。おじいさんの家の裏庭には、屋根より高い木があった。おじいさんは時々その木に登り、上の方の枝をハサミで刈っていた。私にとってそのおじいさんの死は、木の上から永久に人がいなくなるという意味の出来事だった。

 喪失感に襲われるのは、見慣れた景色から、急に何かがなくなったときだ。はじめから見えていなかったものがなくなっても、心はなかなか劇的には動かない。親しい人が遠くに引っ越せば、否が応でも寂しい。マンモスの絶滅を悲しむためには、想像力が必要だ。

 一万年生きる人は、一万年分の欠落を抱えていくのだろうか。幼いときに失った人の九千九百九十回忌は、はたしてお祝いになるのだろうか。時が流れるだけでは足りない、忘れられなければならない。それなのに、いつまでも忘れられたくないと思いながら、私はこうして生きている。