飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

白菜、蘇る。

 冷蔵庫の野菜室に長く滞在しているはくさいが弱っていた。葉がしぼんでしまい、ちぎり取ろうとすると途中で裂けるように破れてしまう。

 レシピ本の言うことには、このようになった野菜はただ水に浸けておくだけで、生き返るというのである。本当は葉の先までまるごと浸けるのが良いようだが、そこまでの大きさの器がないので(寸胴鍋はあったがあいにく使用中だった)、ボウルに水を張って葉の根元が浸かるようにしておいた。

 一晩経って見ると、お見事、葉は生き生きと立ち上がっていた。ちぎるどころか、自らかたまりから離れようとするほどに反り返っているのだ。こんな簡単に、こんな効果が出るものか、と素直に感心した。こう単純でありたいものだ、

と思った。

 新しいキーボードを手に入れたもので、このような何でもない内容であっても、打つ練習をしたいという思いで日記を書いている。未だに、「Shift+け」で「ろ」が出る仕組みには馴染めていない。

借金取りの夢

 怖い夢を見た。跳ね起きてからも、今のが現実に起こったことだったかどうか、繰り返し確かめないではいられないような夢だった。
 駐車場で会った若い男、チャラい雰囲気だがなぜか人が好さそうに見える男から、家人が(ここが「自分が」でないあたり、夢の中の自分の狡猾を感じる)何気なく十万円を借りた。その後、私が訪れたバーで、マスターから「あの男は悪人ですよ」と聞かされる。
 借金をした翌日、男は仲間を三人引き連れて、私達の家に入り込んでくる。そして男達は――。
 こんなところで終わってもしょうがないのだが、この先は書かないことにする。もしかしたら小説の中で使うかもしれない。が、これを書いて世の中の借金取りがこぞって真似をしだしたらどうしよう、と余計な心配を私は半ば本気でしている。男達の行為のどれもが現実に起こりうることのように思えた。
 くだらない、ばからしい行為ばかりだ。しかし正気の私にはとても思い付かない嫌がらせだ。書けば、「何だ、そんなこと」と拍子抜けされるようなことばかりだろう。しかし、周りの同情を得られない嫌がらせをされるのは、それはそれでしんどいことではないだろうか。一つだけ例を挙げれば、男の一人は私が普段使っているフライ返しで、台所の隅をつつくように掃除していた。男はケラケラ笑っていた。そんなようなことをいくつもされた。そういうことだ。

abnop

 長く残したいわけではなく、一時使うためのメモがある。ネット通販の支払いをするためにコンビニのレジで伝える注文番号だったり、イベントが行われる会場の名前だったり。そういうものは、役目が終わったら消してしまう。また、終わったらすぐに消さないと、後になって「これは何だったか、まだ使うものだっただろうか」と悩むことになってしまう。
 スマホのメモアプリに"abnop"と書き残されていた。私が自分で入力したのだろう。さて、これが何だったか。どうもピンと来ない。一応辞書も引いてみたが、そんな単語は少なくとも英語にはない。
 メモの位置からして、どうもこれは、つい最近打ったもののようなのである。最近どころか、昨晩寝る前くらいだろう。寝る前に何を考えていたか。翌日のご飯のことか、土曜日の消防設備点検のことか。それとも物思いにでも耽っていたか。
 待てよ、と思う。物思いに沈むと眠れなくなる性質だ。そういうとき、いつも自分はどうするか。そういうときは、枕元の――
 ポンと膝を打った。思い出したのである。これはアンノーンのことだった。
 枕元に置いてあるゲーム機を手に取って、プレイしている内に寝落ちするというのが、最近多いパターンなのだ。今やっているゲームがポケモンである。
 それで昨晩、もうだいぶ重たい瞼をこすりながら、私はアンノーンというポケモンが群生している洞窟に辿り着いていた。このアンノーンというのはちょっと特殊なモンスターで、姿がアルファベットの形をしているのだ。調べると、AからZまでに、!と?を加えた28種類があるようだ。
 そこで眠たい私は、コンプリートを目論んだというわけだ。確認のために、ゲームを起動してボックスの中を確認した。アンノーンのために設けたボックスには、彼らが姿の順に整列しており、抜けているのはabnopの5種類だけだった。
 これで解決だ。しかし眠りしなの自分がよくも根気よく23種類までポケモンを捕まえ続けたものである。せっかくなので、同じ洞窟でもう少し探してみた。aとbが見つかったので、現在、残りはnopの3体になっている。

禁酒番屋

 図書館から落語のCDを借りてきて流していた。林家たい平の「禁酒番屋」。
 筋を忘れて聞き始めたが、だんだん思い出してきた。ああ、これは確か"下"の落ちなんだよなぁ、と。そういう展開が苦手な私は、確実にその結末へと向かっていく噺に、眉をひそめた。しかしその落ちは、私が気構えていたほどの演出ではなく、案外あっさり終わった、という印象を受けた。
 もっとこってり意地悪く演じることもできそうだが、そこのさじ加減が噺家次第なのだろうなぁ、と想像する。それによって、"下"の噺でも、品良くなったり、子供っぽくなったり、ひたすら気持ち悪くなったりするのだろう。
 他の人が演じる「禁酒番屋」も聞いてみたくなった。しかしそれは、"下"を探して聞くということで、何だかなぁと尻込みしてしまうのである。

新しいキーボードがやってきた

 「やってきた」と言っても自分で注文していたのである。iPhoneに外部キーボードから文字入力したい場面があり、Bluetoothで接続できるものを探して購入した。
 機械だかガジェットだか、ハードだかソフトだか、とにかくそういうものには詳しくない。使えないものだけは買わないように、一応、あらかじめネット検索だけはした。
 WindowsiOSとでは入力の仕方が違うとか、だからファンクションキーのショートカットは使えないとか、予測変換はじゃまになるとか(個人的にはiPhoneの予測変換もオフにしたい)、そういう予備知識を仕入れていく。一番の懸念は、かな入力のことだった。ローマ字入力に対するかな入力のことで、私はいつもそれで打っているからだ。しかしそれについての情報は検索してもあまり見つからなかった。
 さて品物が届いたのが今日である。接続は簡単だった。打鍵感も悪くない。心配していたかな入力の設定も、問題なくできた。事前に聞いていた打ちにくさはあるが、なかなか快適だなぁと思いながら試し打ちしているうちに、あれ、と思った。打てない文字があるのだ。
 「へ」をタイプしても出ない。しかし「む」をタイプすると「へ」が表示される。半濁点の付け方がわからない。かぎかっこと長音の入力方法がわからない。
 まいってしまう。「キーボード」という単語すら、予測変換に頼らないと出せない。個別の事例を入力して改めて検索すると、キーの配置が違うことがわかった。しかもよくわからない違い方だ。中でも「゜」「む」「へ」はそれぞれキーがあるのに一つずつずれて配置されているのが解せない。「Shift+け」で「ろ」が表示されるなんて想像もしなかった。
 全ては慣れによって解決する、と構えておけばいいのだろう。配置のずれるキーにはシールを貼った。手習いを始めたばかりのようで割と楽しい。
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一茶は一茶の姿を見たか

 お笑い番組を見ていてふと考えた。コントと漫才の違いは何だろう。
 コントで芸人は役を演じる。しかし、漫才でも「ほなお前○○な、俺××やるわ」と言って役に入ることはままある。とすると、その部分は決定的な差ではない。
 しばらく漫才を眺めているうちに、必ずというわけではないが、これかな、と思う点があった。
 コントでは、演者間で世界が完結する。芸人は、相方や架空の人物に向かって話す。対して、漫才にはお客が必要だ。芸人は、まずはお客に向かって語りかける。
 だから、コントの最後は暗転で、世界そのものをシャットダウンすることが多い。それを漫才では、「ありがとうございました」とお客へのお礼で締める。

 俳句と短歌の違いについても考えることがある。短歌ではできて俳句にはできないこと、もしくはその逆はあるか。
 あるとき思い付いたのは、俳句には〈自分〉を詠み込むことができないのでは、ということだった。俳句には、見たものをそのまま切り取ってくるという性質がある。その情景に、当の俳句をひねっている〈自分〉自身の姿を入れることはできないのではないか。
 しかし、ほんのわずか考えただけで反例を見つけてしまった。「やせ蛙まけるな一茶これにあり」である。一茶は「やせ蛙」を見ている。が、この句を浮かべている一茶は「やせ蛙」を見ている「一茶」をさらに俯瞰で見ている。
 同じ一茶の句でも、「我ときて遊べや親のない雀」とは、私の受ける印象は違う。ややこしい言い方になるが、「我ときて」の場合、〈句をひねっている自分自身〉=「我」だと感じる。そのため、〈句をひねっている自分自身〉の見ている情景に、「我」の姿は入ってこない。
 「やせ蛙」の場合、〈句をひねっている自分自身〉≠「一茶」のように私には思えるのだ。〈句をひねっている自分自身〉とは別に「一茶」が存在して、〈自分〉は「一茶」を外から見ている。「一茶」は、〈自分〉でありながら同時に、〈自分〉から独立した情景の一部になっている。
 なぜか、と問われると答えに詰まる。また、人によって印象も異なるだろう。無理に私の感じ方を説明するなら、「一茶」という固有名詞が出てきたことで、客観的な効果が出たからだと思う。しかし「我ときて」も、幼い頃の自分の姿を幻のように目の前に見ていたのかもしれない。
 俳句には〈自分〉を詠み込めない、と断じるのはさすがに早計だ。しかし、短歌と俳句とで〈自分〉の扱い方が異なるのでは、という感触については、時折意識してみたい。

私がトラックの運転手だった頃

 私がトラックの運転手だった頃、いつか人を死なせるのではないかという恐怖に苛まれ、発進のたびにでたらめな十字を切っていた。そうして日々、初めての道をぐんぐん進み、バックで細い路地に入っていた。
 その仕事を辞めてからは車を運転しなくなった。そもそも所有していなかったのだが、やがて家人の都合でやむを得ず購入した。普通乗用車はトラックに比べてずいぶんミラーが小さく、私にはひどく運転しにくかった。自宅に駐車するのも怖く感じ、ますます車から離れるようになった。
 車を買ってから半年ほどで、家人はそれを必要としなくなってしまった。以後の走行距離は、月に十キロから二十キロというところではなかったか。それでも駐車場代を払ったり、自動車税を払ったり、車検の見積もり金額に卒倒したりした。
 もう手放してしまえ、と正直なところ思っている。今時、カーシェアだってできるじゃないか。これではあまりにも不経済だ。だが、「これからもっと乗るかもしれない」と言われてしまった。しぶしぶながら、きっとそうなるのだろう、とは私も思っている。
 そして、どうせ持っているなら乗るべきなのだ。その分ガソリン代もかかってくるだろうが、車検で「あまりに使っていないのですっかり傷んでしまいました」という部品の交換代に取られるよりはましに感じる。私もまた毎日十字を切って車に乗ればいい。どこかで判断が狂ってしまった、何かが間違っている、と思いながらハンドルを握ればいいのだ。