飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

同じ空の下、快晴

 ずいぶん前に、「三好達治『雪』のこと」という記事をブログに書きました。この詩についての私の読みを、つらつらと書いたものです。

 さて、大山誠一郎のミステリ小説が好きです。初めて作品を読んだのは、PSPソフト「TRICK×LOGIC」でのことでした。おもしろい以上に肌に合うと感じ、そう、こういうミステリを私は読みたいのだ、と膝を打ったものです。

 さっそく本を求めようとしましたが、あまり多くは世に出ていません。私は、文庫で出ている『アルファベット・パズラーズ』を手に入れた他は、単発の「赤い博物館」を読んだきりになっていました。

 そして今日のことです。たまたま手に取った『本格ミステリ'10』という本に、大山誠一郎「佳也子の屋根に雪ふりつむ」が選ばれていたので、読みました。

 …………。

 人は、似たことを考えるのだな。同じことではないけれど、どこかの誰かが、私と近いことを考え、言っているのだな。

 この同じ空の下で。

 それが私の好きな作家であったことが、嬉しくもあり、また悔しく歯がゆいような思いもあり、話の序盤でしばらく本を伏せて、じっと物思いにふけったのでした。

きっと人徳が必要だ

 お笑い芸人をたくさん集める番組には、二種類あるのだなぁと思った。芸人が苦しんでいるのを見て楽しむ番組と、芸人が楽しんでいるのを見て楽しむ番組だ。

 今の視聴者は、感情移入が強いと言うのか、「あれが自分だったら」という視点でテレビを見ることが多いような気がする(本当に「気がする」だけだ。ただの実感だ)。だから、楽しんでいるのを見て楽しむ番組の方が、広く受け入れられそうだ。少なくとも、演者は好感を持たれるのではないか(好感を持たれるのが良いかどうかは別の話だ)。

 その割には、苦しんでいるところを見せて笑ってもらおうという番組が多い。いけないと思っているのではない。どうしてだろう、と不思議なのだ。「楽しんで、楽しませる」という番組を成立させるのが難しいのだろうか。そのためには、司会者なり、制作者なり、誰かしらに特別な人徳が必要なのではないかと想像する。が、深くは考えずにぼんやりテレビを観ている。

やるか、死ぬか?

 「やるか、死ぬか。」という選択肢が究極のように語られることがあります。死と比べることによって、本気度がはかられるように思われているのかもしれません。

 でも、どうでしょう。これはむしろ、問題を単純にしていることにならないでしょうか。「死んでもやりたくない。」または「死ぬくらいなら、やりますよ。」というのは、却って安易な決め方のようです。

 本当は、「死ぬかもしれないけど、死なないかもしれない。さて、やるか?」という場合の選択こそが、難しいという意味では究極なのでしょう。そして身の回りにあるほとんどの選択は、「死ぬかもしれないけど、死なないかもしれない。」という前提で行われています。生きている限り、私達はいつでも「死ぬかもしれないけど、死なないかもしれない。」のですから。

 死ぬかもしれなかったけど、結局は死なないままに、昨日が終わりました。死ぬかもしれないけど、死なないかもしれない今日が、また来ます。さて、やるか?

アニメの中のアイドルは

 家人がアニメを観ていると、興味がなくても自分の耳に内容が入ってくることがある。アイドルを目指したり、アイドルになりたてだったりする女の子を題材にした作品がこんなに何種類もあるものか、と戸惑った。

 登場するアイドル達は、わがままである。「あいつはわがままだなぁ」と周りから疎まれている、わけではなく、とてもいい子だと思われ、そのように描写されてもいるのに、ただナチュラルにわがままである。

 そもそも思い入れを持って観ているわけではないから、たまたま不機嫌だった私は、「大人はあんな子甘やかしたら駄目よ。社会人なら叱ってやらんと」というようなことを言った。すると家人がぽつりと呟いた。

「アイドルは商品だから。目一杯丁寧に、優しく接してやらんと仕方ないのよ」

 私は妙に納得して、返す言葉もなかった。

白菜、蘇る。

 冷蔵庫の野菜室に長く滞在しているはくさいが弱っていた。葉がしぼんでしまい、ちぎり取ろうとすると途中で裂けるように破れてしまう。

 レシピ本の言うことには、このようになった野菜はただ水に浸けておくだけで、生き返るというのである。本当は葉の先までまるごと浸けるのが良いようだが、そこまでの大きさの器がないので(寸胴鍋はあったがあいにく使用中だった)、ボウルに水を張って葉の根元が浸かるようにしておいた。

 一晩経って見ると、お見事、葉は生き生きと立ち上がっていた。ちぎるどころか、自らかたまりから離れようとするほどに反り返っているのだ。こんな簡単に、こんな効果が出るものか、と素直に感心した。こう単純でありたいものだ、

と思った。

 新しいキーボードを手に入れたもので、このような何でもない内容であっても、打つ練習をしたいという思いで日記を書いている。未だに、「Shift+け」で「ろ」が出る仕組みには馴染めていない。

借金取りの夢

 怖い夢を見た。跳ね起きてからも、今のが現実に起こったことだったかどうか、繰り返し確かめないではいられないような夢だった。
 駐車場で会った若い男、チャラい雰囲気だがなぜか人が好さそうに見える男から、家人が(ここが「自分が」でないあたり、夢の中の自分の狡猾を感じる)何気なく十万円を借りた。その後、私が訪れたバーで、マスターから「あの男は悪人ですよ」と聞かされる。
 借金をした翌日、男は仲間を三人引き連れて、私達の家に入り込んでくる。そして男達は――。
 こんなところで終わってもしょうがないのだが、この先は書かないことにする。もしかしたら小説の中で使うかもしれない。が、これを書いて世の中の借金取りがこぞって真似をしだしたらどうしよう、と余計な心配を私は半ば本気でしている。男達の行為のどれもが現実に起こりうることのように思えた。
 くだらない、ばからしい行為ばかりだ。しかし正気の私にはとても思い付かない嫌がらせだ。書けば、「何だ、そんなこと」と拍子抜けされるようなことばかりだろう。しかし、周りの同情を得られない嫌がらせをされるのは、それはそれでしんどいことではないだろうか。一つだけ例を挙げれば、男の一人は私が普段使っているフライ返しで、台所の隅をつつくように掃除していた。男はケラケラ笑っていた。そんなようなことをいくつもされた。そういうことだ。

abnop

 長く残したいわけではなく、一時使うためのメモがある。ネット通販の支払いをするためにコンビニのレジで伝える注文番号だったり、イベントが行われる会場の名前だったり。そういうものは、役目が終わったら消してしまう。また、終わったらすぐに消さないと、後になって「これは何だったか、まだ使うものだっただろうか」と悩むことになってしまう。
 スマホのメモアプリに"abnop"と書き残されていた。私が自分で入力したのだろう。さて、これが何だったか。どうもピンと来ない。一応辞書も引いてみたが、そんな単語は少なくとも英語にはない。
 メモの位置からして、どうもこれは、つい最近打ったもののようなのである。最近どころか、昨晩寝る前くらいだろう。寝る前に何を考えていたか。翌日のご飯のことか、土曜日の消防設備点検のことか。それとも物思いにでも耽っていたか。
 待てよ、と思う。物思いに沈むと眠れなくなる性質だ。そういうとき、いつも自分はどうするか。そういうときは、枕元の――
 ポンと膝を打った。思い出したのである。これはアンノーンのことだった。
 枕元に置いてあるゲーム機を手に取って、プレイしている内に寝落ちするというのが、最近多いパターンなのだ。今やっているゲームがポケモンである。
 それで昨晩、もうだいぶ重たい瞼をこすりながら、私はアンノーンというポケモンが群生している洞窟に辿り着いていた。このアンノーンというのはちょっと特殊なモンスターで、姿がアルファベットの形をしているのだ。調べると、AからZまでに、!と?を加えた28種類があるようだ。
 そこで眠たい私は、コンプリートを目論んだというわけだ。確認のために、ゲームを起動してボックスの中を確認した。アンノーンのために設けたボックスには、彼らが姿の順に整列しており、抜けているのはabnopの5種類だけだった。
 これで解決だ。しかし眠りしなの自分がよくも根気よく23種類までポケモンを捕まえ続けたものである。せっかくなので、同じ洞窟でもう少し探してみた。aとbが見つかったので、現在、残りはnopの3体になっている。