飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

大きな玉ねぎのカレー

例えば(はじめに言っておくと今夜これに類することは誰からも言われていない)「君の作った今夜のカレーは、玉ねぎの切り方が大きいから、今度からはもっと小さく切ってほしい」と言われたときの気持ちの落とし所。
大きく切った理由は、今日疲れていて小さく切る気力がなかったからである。元気のあるときは小さく切る努力をするが、今日はこのカレーで良しとしてほしいし、これからも大きな玉ねぎのカレーを出すことはあると思う。
しかしこの私の言い分は、会社勤めであれば「雑な仕事をしたのは、疲れていて気力がなかったからである。元気があるときはもっと頑張るから、今回はこれで良しとしてほしいし、これからも雑な仕事をすることはあると思う」となるだろうか。
彼女は減給である。
あらかじめ炒められた、あるいはカットされ玉ねぎを購入することは、コスト面が見合えば可能だろう。ただし私はそれをもったいないと感じる。その分の費用を「玉ねぎを小さく」と言っている顧客に請求するのなら、ありかもしれない。ただ、そうしたいわけではない。
そういうことも天秤にかけた上での、大きな玉ねぎのカレーというあえての選択だったのだ。
改善してくれ、と伝えるのは自由である。そしてもっともである、特に家庭内なのだから(そう、実は家庭の話を想定しているのだ)。「小さい玉ねぎのカレーのほうが好きだから、今度からはそうしてほしいな」と発言することに問題はない。
ただ、こちらだってあなたのその希望はもとから分かっていますよ、分かっていて、ただこちらが疲れているからやらなかったんですよ、ということを言いたい。
彼女は何を言っているのだ、ということだ。
疲れているから雑にやったしこれからもやるよ、以外に説得の方法がないのだ。私は疲れているから手を抜きたかったし、お金もかけたくないの。大きな玉ねぎのカレーだって、好みじゃないかもしれないけど、それなりにおいしいでしょう、だからこのくらいでいいことにさせてよ。
相手がその言い分をしているうちに減給になった場合、私は「そこはもっと頑張ってよ」と言わないでいられるだろうか。少なくとも、改善してほしいと思うことは避けられない。
分かっているよ、減給になるかもしれないと分かっているけど、自分が疲れていることも大切にしないといけない事実だから、手を抜いたのだ。相手がおそらく喜ばないと分かっていながら、自分が疲れているという事実を重視して、手を抜いたのだ。同じことだ。
私が相手を頑張らせたいなら、相手が私に要望することも(そしてその要望は決して無茶なものではない、もう少し頑張れば十分実現可能なことなのだ)容認するべきだ。
そもそも、相手は「玉ねぎを小さく切ってほしい」と伝えることで、彼女を困らせたいとは思っていない。というより、このような些細なことで、困ったり、悩んだり、後々まで引きずったりしないでほしいと思っている。ましてや怒ってもらいたくも落ち込んでもらいたくもない。双方の幸せのために(カレーはみんなのために)。確かに些細なことである(しかし私にとってはよく考えた末の大きな玉ねぎというつもりである)。
要望を伝えたい。そのことで深刻になりすぎないでほしい。
相手は間違ったことはおそらく言っていない。
いや、そもそも今夜、こんなことは誰にも言われていない。私の想像である。こういうことを言われそうだと思ったのだ。今は19:46である。このことは17:30頃から考えている。責めているように見えるのだろうか。そう見えたくない、ただ険悪にならないように「私はよく考えた末に手を抜いたしこれからもそうしたい」と伝えたいのだ。しかしもし直に言われたら私はとっさに明るく柔らかにそのことを伝える自信がない。そのことを責めないようにうまく伝えることが難しいのだ。誤解されない話し方を考えているうちに彼女は口を利かなくなったのだ。彼女は久しぶりに口を聞いた。楽しいことをしたい。人の気持ちが明るくなるようなことを言いたい。彼女はもう長い間無言であった。彼女の頭の中にあるたいへんに明るい話題を探した我々は驚くべきものを見つけてしまった。それは(ここは後で書く)

彼女は疲れている。こんなときに玉ねぎを小さく切るのは大変だ。
しかし、大きな玉ねぎのカレーを作ることでこれだけ悩むことになるのだったら、あのとき5分間だけ気力を奮い立たせて、全部の玉ねぎをみじん切りにするべきだったのだ。

2017年がもし1週間の修羅場だったら

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この記事は 創作 Advent Calendar 2017 に参加しています。

少しでも実用的な内容をお求めの方は、ここをクリック(タップ)して最後の項目からご覧ください

まばたきしているあいだの世界

どうぶつの森ポケットキャンプというスマホアプリで遊んでいる。自分の管理するキャンプ場の環境を整えて、いろんなどうぶつ達に遊びに来てもらうのだ。

一度キャンプ場から追い出したどうぶつでも、呼び戻せばまた喜んで来てくれる。逆に、追い出さなければいつまでもいてくれそうな雰囲気がある。まるで、プレイヤーが見ていないあいだは、キャンプ場の時間が止まっているみたいだ。しかもオートセーブで保存し忘れの心配がない。

今は毎日アプリを立ち上げているので分からないが、もし数日や数カ月遊ばないで、キャンプ場の管理を放棄したらどうなるのだろう。3DS版のどう森では、しばらく村に行かないでいると、雑草は伸び、育てた花は枯れ、親しくしていたどうぶつは手紙を残して引っ越してしまっていた。

ポケ森では、何年か経ってアプリがサービスを終了して、もう決してキャンプ場に行けなくなったときに初めて、

――あ、失った。

と感じるのだろうか。

2017年がもし1週間の修羅場だったら

本日はいかがお過ごしですか。私はわたりさえこといいます。小説や詩歌の本を作り、「ナタリーの家」というサークル名でイベントに出ることがありますが、あまり活発には動いていません。

2017年のイベント参加は1回だけで、11月23日(木祝)に開催された文学フリマ東京に「ナタリーの家のヒトリの客」という合同サークルで出展しました。「小説を書くのがつらいけど、何か小説の本を作ろう。目標はつらくないこと」というコンセプトで、『見えない聞こえない曲がりにくい』という本を作りました

このときに作った本がそもそも、自分達が小説を書く方法を検討し、実践し、考察するという内容でしたから、それについて新しく振り返ることは、実はあまりありません。本を読んでいただくか、ブログでもいくつか記事を書いた(リンク先の下部に一覧があります)のでそれを見てください、と言うのが最も丁寧なご案内となります。

そこで、今回はせっかくのアドベントカレンダー企画ですから、1年間をカレンダーで見直してみたいと思います。

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「津和野さん」は今回合同出展して本を一緒に作った津和野ヒトリさんのことです。最初が「飲み会」になっていますが、このときの会話がきっかけで本を作ることになったので、カレンダーに書き込みました。

この図から計算して、2017年を1週間に換算すると大体こうなります。

月曜日からずっとぼんやりしていて、
木曜日の夜7時に飲み会。
その夜に同人誌を作ろうと話をして、
金曜日の午前2時になって企画会議。
朝7時頃から原稿を書き始めて、
土曜日の早朝5時が小説の〆切。
そこから編集や企画の制作を始めて、
午後6時に入稿。
告知やイベントの準備をして、
日曜日の朝7時からイベント開催。
その後朝10時から通販開始。

小説を書いているのがほぼ金曜日の丸一日だけです。一夜漬けもいいところです。

ただ、もっと「月曜日から木曜日の夕方まで何をやっていたんだ」というまとめになるかと予想していたのですが、本を作り始めてからの部分を見ると、あまり修羅場という感じはありません。やるべきことがきちんとできていたからでしょうか。

実際、今回の本作りはほぼ予定通りに進行しました。原稿チェックは互いに何重にも行い、入稿もおおむね問題なし、告知や当日準備も余裕を持ってできました。

「予定はそれを守らない人も存在することを前提に組むべきである」というのは原則ですが、全員守るとこんなにいいのか! という当たり前の驚きがあります。みんなやっぱりできるだけがんばろう。

指摘するとすればやはり「上半期の創作活動が表に出ないものも含めてゼロなのはどうなんだ」ということになるでしょう。

ただ、小説を書いたり本を出したりすることが、楽しいことか苦しいことかの境界線上で、かなり苦しいのほうに傾いているとき、やりたいときにやりたいことだけやるという選択肢があってもよくはないですか。今年はそういう年だったのだ、と思うことにしました。

ところで、きょう12月11日は、日曜日の午後3時頃にあたります。夜までのんびりしていてもいいし、やろうと思えばまだまとまったこともできそうな時間です。いずれにしても、まもなく1週間が終わりますね。

お金持ちを眠らせ、お金持ちの屋根に雪ふりつむ

書店の店頭やテレビを眺めていると、今どきは年末に大掃除をするのではなく、普段からちょこちょこ掃除をして改まった大掃除はしないというのがトレンドのようです。

何かの本に「〈掃除好き〉と〈きれい好き〉の違いは、本人が自分で掃除をすることに重きを置いているか否かである」とありました。それで言うと、私は掃除嫌いな上、他人が掃除をするのも好きではありません。しかも汚れているのはやっぱり嫌です。

ですから、もし自分がお金持ちになったら、という妄想の中には、必ず埃が登場します。雪が誰のもとにも平等に降るように、どんなお金持ちの家にも埃は積もるんだよな。お金持ちだから、お掃除してくれる人を雇うだろうけど、でもそれも誰かが掃除をするのには変わらないんだよな、と。

つらい上に書きたいことも思いつかないのに、何か書かないと落ち着かない気持ちを、津和野さんはあるとき「業」と呼び、私は「ずっと前から見て見ぬふりをしている部屋の隅の埃」と言いました。この埃は書くことによってしか掃除されません。

埃なんかはじめから積もらなければいいのに。そんなことを言っても、この世で生活している限りは逃れられない道理です。困った。困っているあいだにも、目の端に埃が溜まっていくのが見えます。どこかで諦めて掃除をしないといけません。そうしなければ、私の家はいつまで経っても薄汚れたままなのです。

2018年への申し送り
―なるべく頭を使わずに小説を書き終えるための3つのリスト―

君が次に小説を書こうと思ったとき――それがクリスマス前の早い時期であればより良いと思うけれど、来年になってからということも、それより先ということも、この先二度とないということもあり得るだろう。それらの可能性を全部ひっくるめて、ここでは区切り良く、2018年への申し送りとしておこう。

君がこれを読むときには、もう小説の書き方なんて忘れているだろう。頭が真っ白になったときのカンニングペーパーとして、これを記す。チェックリストというよりToDoで、この通りにすれば何とかなることもあると思う。

全てやる必要はない。しかし君は全てやりなさい。どうせ君はまた、書けないとか、先が見えないとか、どうしていいか分からないとか言うのだろうから。そういうときに、できる限り悩まずに書くことはできないものかと、2017年の君は一所懸命考えていたはずだ。

(1) 文を整えるためのリスト

  1. “の”の連続は“にある”に置き換える
  2. “てる”は“ている”に置き換える
  3. “……”は削るか描写文に置き換える
  4. “( )”は削るか“――”に置き換える
  5. 人称と固有名詞で全文検索をかけて統一されていなければ正しく置き換える

(2) 次の文が思い浮かばないときのリスト

  1. 物を食べさせる
  2. 乗り物に乗せる
  3. スポーツをさせる
  4. 仲間を呼ぶ ※参照記事
  5. 最後の一文が浮かばないときは最初の一文をコピペする、最初の一文が浮かばないときは最後の一文をコピペする

(3) 収拾がつかなくなったときのリスト

  1. 後で埋めるつもりだった空行は消す
  2. 回想シーンは消す
  3. ツッコミの台詞は消す
  4. 主要登場人物(できれば主人公)を一人消す
  5. 文末に〈了〉と書く

幸せになってね。

メリークリスマス。

よいお年を。

金色の仏像が泉の中から出てきてあなたに問いかける

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小説を書くのがつらくてはらはら涙をこぼしながら泉のほとりを歩いていると、水の中から波紋とともに現れ出たのは、口元に薄い笑みをたたえた金色の仏像だった。仏像はいかなる種類の斧も手にしてはいなかった。

――あなたよ。

仏像は語りだす。

――小説を書く苦しみはあなたが自ら選び、その渦中に飛び込んだものである。なぜそのように泣くのか。

「これは小説を書くことの苦しみばかりではないのです。わたしが小説に身を捧げるほど、健康は損なわれ、金銭は失われ、友人は去り、家庭が荒れていきます。仏様、これはどうしたことでしょうか」

――仏ではないが、まあいい。それは、人が何もかもは手に入れられないからだ。有限のリソースを、あなたがいいと思うように振り分ければ良い。

「しかし小説を書くならば自分のすべてをそれに捧げるべきではないでしょうか」

――そうしたいと思うならそうすれば良い。小説を書くためには生きている必要がある以上、生活をまるきり切り離すというのは困難だろうが、他の何よりも小説を優先する態度でいなさい。

 「そうは言いますが、わたしは健康が欲しいのです。金銭も惜しいのです。友人は大切で、家庭はかけがえのないものなのです」

――ならばそうするのだ。よく歩き、無駄な遊びを慎み、礼を忘れず人と交わり、家族には日々愛情を伝えるのだ。その上で小説を書くなら書けばいいのだ。

「多くの先人は、たいへんな苦しみや犠牲の上に傑作を生んできました。そんなふうに生活を充実させては、つまらない小説しか書けなくなるのではないですか」

――あなたは既に苦しんでいるし、このような問答のためにもう二度とない時間を犠牲にしているし、今でさえ自分の書く小説をつまらないと思っているのだから、それはする必要のない心配である。

「わたしは今のわたしを改めたいのです」

――改めるが良い。

「だからどうすれば良いのかと聞いているのです」

――これまでに言ったことが答えである。

「だから、例えば、じゃあ、わたしはこれまで……」

あなたはさめざめと泣く。

「仏様、白状します。わたしは本当は、ただ楽をしてなおかつ良い小説を書きたいのです。でも、そんな方法はないですよね。こんなことを言っているから、良い小説が書けないのですよね」

仏像ははじめから変わらず口の端をわずかに上げたままで続ける。

――では自分の心の葛藤と向き合うのをやめなさい。葛藤を捨てることについての葛藤も捨てなさい。これでいいのかと問うことをやめなさい。答えを見つけようとすることをやめなさい。それでいて小説を書きなさい。そのようにして小説を書きなさい。

問うことを封じられたあなたは、激しくしゃくりあげながら仏像に言う。

「あなたは正しい、あなたは聡い。まったく、すべておっしゃるとおりです。あなたのお邪魔はしませんから、どうぞこの先、わたしのことは放っておいてください」

そうしてあなたはできる限りの速さで走って逃げ帰る。

あなたの背中を見送った仏像は、おもむろに金色の皮膚を模したマスクをベリベリと剥がす。その下から現れた無表情の顔は、もちろんあなた自身のものなのだった。

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『見えない聞こえない曲がりにくい』にまつわるこれまでの更新

針を付けろ、バナナを貼れ。第二十五回文学フリマ東京に出展しました

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編集が担う役割の一つは作品から不要な部分を削ることなので、私は著者二人がおしゃれなカフェでケーキを頼むシーンをカットした。だっていらないと思うだろう、本の著者がケーキを食べに行ったエピソードなんて。しかし後になってこれを知った人から「その場面は、入れるべきです」と力説されてしまった。そんなことを言われても、本はとっくに印刷されてできあがっている。まことに編集は難しい。

第二十五回文学フリマ東京に【ウ-24】ナタリーの家のヒトリの客(小説│ホラー・怪奇)として参加しました。津和野ヒトリさんとの合同出展でした。

『見えない聞こえない曲がりにくい』という本を二人で作って頒布した。目の前で自分達の作った本が手に取られているのを見ることになるので、自然と相談が始まる。私達の本の不親切さ*1はほとんどが意図してそうしたものだけれど、実際に戸惑っている方に、どういうタイミングでお声かけするのがいいだろうか(あるいは何も言わないほうがいいだろうか)とか。来場者目線のつもりでブースの設営をいろいろ工夫してみても、視線や動線のコントロールはなかなか思うようにいかないね、とか。

それから、この本はリバーシブル、いわば両A面の本なので、通常の本でいう表紙だけでなく裏表紙にあたる面も見てほしい。しかし、見本誌コーナーは平置きなので、表紙の側しか見せることができない。両面を見せるために、仮に本を伏せておいたとしても、親切な人の手ですぐ元に戻されてしまうだろう。手に取った本を確実に裏返して見てもらうには、どうすればいいか。

例えば、本の裏側にごく短い針のようなものを付けておいたらどうだろう。本を手に取ったら、指先がチクッとする。そうすれば人は、とっさに本を裏返すだろう。これで裏表紙の側も見てもらえる可能性が高くなる。

一応言っておくと、こんなこと実際にはやりゃしない。他にも、裏側をザラザラさせる、フワフワさせる、ベタベタさせるといったやり方が考えられるが、特にベタベタあたりはアウトだろう。マジックテープの片面を付けておくくらいが実現可能な線か。あ、ヒンヤリという手はあるな。周りを濡らさず汚さないやり方ができるなら、ありではないか。

この話をすると「そもそも、本を手に取ってもらわなくては、仮に針を付けても意味がない」と指摘があった。確かに、自分達は油断すると地味なほう地味なほうへ向かいがちである。「本のテイストに合わないくらい派手ではないか」と悩みながら幅広な黄色のオビを見本誌に巻いておいたのだが、いやいや、見本誌コーナーで見たら全然目立ち過ぎるなんてことはなかった*2

これも例えばの話だが、私がぱっと思いついたのはバナナを貼っておくことで、高さが出るし、色が黄色で目立つし、何よりつかみたくなる形をしている。「いや、なまものでは却って誰も手を出さないだろう」*3とも言われ、それはまったくその通りなので、模型でいいと思う。開場中に熟して匂いが強くなっても迷惑だろうから、むしろそのほうがいい。「え、本物? 違うよね?」くらいの完成度のバナナが貼ってあって、裏側がチクッとする本なら、目論見通り両面を見てもらえるはずだ。

「作品で殴る」という言い方がある。殴ってしまえば簡単だけど、殴るのは良くないことだから、代わりに言葉を使ったり絵を描いたり音楽に合わせて踊ったりする。そんな無茶なというしかない代替行為だが、なんと誰もがそれをやっている。それが表現ということだ。私達も、針とバナナさえあれば済むところを、それらを使わずに何とか切り抜けた。おかげさまでたくさんの人に本を見てもらうことができ、嬉しいね嬉しいねと言い合った。針もバナナも使わなくてよかった。ありがとうございました。通販は行う予定で準備中です。

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これまでとこれからの更新(予定)

*1:本のタイトルが分かりにくい、本の構成を勘違いされやすい、短編集なのに目次がない、著者名がなかなか出てこないなど。

*2:目についたのは、非常に厚い本>非常に面積の大きな本>Twitterなどでタイトルに見覚えのある本>装丁が凝っていたり表紙のデザインが良かったりする本の順だった。作者名やブース番号であえて探す本はむしろ見つけにくかった。

*3:これもわざわざ書くのは野暮なことだが、一応出店要項で禁止事項を参照すると、「販売・配布禁止物」の欄に「食品衛生法や条例で『食料品等販売業』許可などを要する飲食物」とあった。若干意味合いが違うように思うし、なまもの禁止など「表紙に生のバナナを貼ったデザインの本はいけない」と直接的に読み取れる項目は見つからなかった(類する内容があったらすみません)が、仮にそんな本を置こうとしたら少なくとも指摘が入るだろうし、大体その辺を争ってまで表紙にバナナを貼りたいわけではないのだ。

『一汁一菜でよいという提案』

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「悩む時間が人を育てる」や「若いうちの苦労は買ってでもしろ」は、現に悩んだり苦労したりしている人を励まし、勇気づけ、時になぐさめるための声掛けだったはずなので、逆にこれらの言葉のために悩みや苦労を背負うことになっているとしたら、ちょっと発し方や受け取り方を変えたほうがいいと思う。

理研究家の土井善晴さんが書いた『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社)という本がある。ほぼ日の対談を読むと、土井さんは最初「『今夜のおかずどうしよう?』が多くの奥さんがたの悩みだと聞いて、『いい悩みじゃないか』くらいに思ってた」が、「よくよく聞くと、現実問題、みんながほんとに苦しんでいる」ことに気付いたという。

この頃は特に、育児の関係でよくそういう話を聞く気がする。「一日中子供の相手ばかり」だなんて、かわいい子供といられて幸せじゃないかと思うのに、どうもあの人もこの人もみんな本当にしんどそうだぞ、これはどういうことだろう、と。

稲垣えみ子さんの『もうレシピ本はいらない』(マガジンハウス)という本(すみません、未読です)も、悩まなくても良いワンパターンの食事を提案して話題になっている。

何でも選べるのはいいことだ。でもあれもこれも選ばなきゃいけないと思うと大変だ。あっちの水は甘いぞというささやきが、四方八方から聞こえてくる。だったら甘い水を選ばないともったいない気がする。選ばないことが損をすることのように思えてくる。

選んだほうがいい、悩んだほうがいい、考えたほうがいい。きっとそうなのだろう。でも全部にそれは無理だ。選ばなくてもいい、悩まなくてもいい、考えなくてもいいと、どうか私に言ってくれ。

『一汁一菜でよいという提案』は、おかずは何品なければいけないとか、仕事をしていても食事はきちんと作らなくてはいけないとか、そういう苦しい縛りから人を解放する考え方だ。もちろん、気が向いたときには、そこにおかずを一品、二品と足してもいい。一汁一菜の形で、こだわることだっていろいろできるだろう。

でも、そのことはひとまず考えないようにしましょうよ。ぽけーっと口を半開きにして、信じる宗教の教祖が言うように……というのではあまりに言葉が悪いというなら、まだ疑うことを知らない素直な心で「一汁一菜でよいのか、それなら簡単だね!」と思い込もうと。私にはそれ以外のことを考える余力はもうありませんよと。

やっと宣伝に舵を切ると、津和野さんの考えも、それに近いものがあると思う。小説を書くときに考えるのは、筋だけでよいという提案。解釈や考察はなくてよいという提案。深みがなくてもよいという提案。

私は無垢に目を輝かせて「それなら簡単だね!」と言うだけである。あなたも口を半開きにして、教祖の言葉に耳を傾けてみないか。

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これまでとこれからの更新(予定)

仲間が来た! なんて日だ!

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お笑い芸人の人がネタを作っているところ萌え、というのがあると思う。私がそうである。初期の「内村てらす」や「笑×演」でそういうシーンがあると、録画を巻き戻して何度も見てしまった。

さて、「アメトーーク!」の「相方大好き芸人」の回(2017年9月17日放送)を見た。この中で、ロバートの秋山さんが「自分たちのコントは博に4つのツッコミをさせれば成立する」という内容の話をしていらっしゃった。それはテレビで話していいのだろうか、コントの作り方なんて秘中の秘ではないのか、と思わなくもなかったが、以前に別の番組でも「うちらのコントって全部パターン一緒なんすよね」と言っていたので、トークネタの一つなのだろう。

私がとっさにメモしたその4つのツッコミというのは、「何?」「何だ?」「仲間来た」「ムリ」だ。変な奴がいて「何?」、変なことをやりだして「何だ?」、変な奴がもう一人増えて「仲間来た」、付き合いきれなくなって「ムリ」である。

すごい。これはまごうことなく型である。これさえ知っていればロバートのようなコントが作れる、かと言ったらやはりご本人たちのキャラクターや設定あってのものなので、どうしても同じようにはならないだろうけど、でもパターンだけなら同じにできる。やはり秘伝として隠しておくべき情報ではなかったのか。

  1. 「何?」 What's happened?
  2. 「何だ?」 What's the cause?
  3. 「仲間来た」 His fellow came.
  4. 「ムリ」 What a day!

これでコントの3W1Hだ。頭文字を揃えたら他の芸人さんの決め台詞が交ざってしまった。それにしてもシンプルでいい。シンプルなのでこちらの書くことが「型すごい、おもしろい」の繰り返しになってしまっているが、もう少し続ける。

起承転結の転にあたるものが「仲間来た」なのが、私には新鮮だった。転というくらいだから、それまでの流れをぐいと捻じ曲げるような新しい展開を、話を考えるたびにひねり出さなければならないと思っていた。私はいつも起と承で起こったことばかりこねくり回していた。視界は常に狭く、過ぎたほうばかりを向いていた。そこへ仲間が来るのである。世界が明るくなる。可能性の枝が伸びる。そんな手があったのか、と思わされる。

乱暴な言い方だが、困ったら仲間を呼べばいいのだ。これは本当に、覚えておくと小説を書くときにずいぶん助かるんじゃないか。そしてオチが思いつかなかったらどうするのか。「ムリ」と叫ぶのだ。「ムリ」は、「いい加減にしろ」であり、「もういいぜ」であり、「なんて日だ」なのだ。世界そのものをシャットダウンして終わりにするのだ。

良いものが書けるかと言ったら、それはまた別の話だろう。でも、書けない書けないと頭を抱えているときに、とにかく終わりまで持っていけるというのは大きい。書くのが「ムリ」だと思ったときこそ、「ムリ」と叫ぶ。それだけでも覚えて帰ってください。

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これまでとこれからの更新(予定)

窮屈な現代の本当らしさとそれを信じるということ

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心霊と怪談の違いとはなんだろう。いや、実のところ、それはなんとなく分かる。では、心霊番組と怪談番組の違いとはなんだろう。

の編集中にたまたま読んだ「“恐怖コンテンツ”の勢力図に異変!? 「怪談番組」がCSなどで重宝されるワケ」という記事が気になった。

この記事に書いてあることを信じれば、「非科学的」「やらせ」「捏造」への視線が厳しい現代において、テレビ番組では「心霊」より「怪談」のほうが扱いやすい、らしい。

前半は、感覚的には納得できる。「非科学的」も「やらせ」も「捏造」も、安心して指を差せそうな、明らかな悪徳に見えるのだろう。こんなアメリカンジョークを聞いたことがある。「警察官になりなさい。相手のほうが必ずあなたより悪いから」。

引っ掛かるのは後半である。「心霊」に捏造の影が見えたら、視聴者に糾弾される。だったら、なぜ「怪談」ならそれが許容される(とこの記事の著者は考えている)のだろうか。

「心霊」より「怪談」のほうが扱いやすいという構図からは、「心霊」は事実でなければならない、「怪談」は作り話であってもよい、という前提があるように思える。心霊と怪談の違いは、本当にそんなところにあるのか。

私は、心霊は霊的なものそのもので、怪談は心霊を含む不思議なもの・ことが「あったとさ」と語ることだ、と捉えている。事象と受け手の間に、語り手が挟まることにより、確かにそこに嘘や脚色が混じる可能性は高まるだろう。

ただ、「番組」である時点で、それは「あったとさ」という語りの一種になっていると思う。「番組」は明らかに、心霊現象を受け手(視聴者)に伝える語り手である。すると、心霊番組は既に怪談と変わらないものになっている気がする。怪談番組の場合は、事象→語り手→番組→視聴者と仲介者が増えるだけではないのか。

さらに言えば、怪談が作り話であるとも限らない。現に、先ほどの記事でインタビューを受けている語り部の方は、実際の体験談を「ルポルタージュ的なアプローチ」で取材し、披露する形式をとっているという。

(この方は、心霊番組が作りづらくなった理由をどう見るかと質問されて「心霊スポットのロケはお金がかかる。語り部をスタジオに呼んで話をさせるのは低予算」という内容の回答をしており、なるほど明快で納得しやすいなと思った)

それなのに、怪談というものに嘘っぽさを感じるとしたら、それはなぜか。心霊現象を目の当たりにするというのは特別なことだ。しかし、怖い話をするのは誰にでもできそうなことだ、と思うからだろうか。

そう、誰にでもできる。絵だって誰にでも描ける。小説だって誰にでも書ける。楽ちんで、いい加減なものだ。しかしそれをうまい具合にやろうと思ったら、どうやらこれは全然簡単でもなければ、誰にでもできることでもないぞ。

でも、いい加減なものだと(もし本当に思われているとしたら)思われていたほうがいいのかもしれない。怪談は、どこかに瑕疵がないかと目を見開いて隅々まで検証するための材料ではないのだから。ましてや自分で目の当たりにした心霊そのものだったらなおさらだ。

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これまでとこれからの更新(予定)