飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

屈託なく、衒いもなく、異世界転生できるかな?


時代の潮流に乗れている気がしない。見当違いなことを書いていたら見逃してほしい。

長編ミステリ小説を読みたかったので、10冊ほど読んだ。
海の孤島。雪の山荘。資産家が建てさせた大きな屋敷。

異世界転生も、こういったテーマの仲間なのではないか、とふと思った。

ああ、よくあるお決まりのやつですね、というふうに扱われる。
こうなると、自分が書くのは難しいと感じる。あるいは何だか恥ずかしいと。
難しい理由は、例えば、既に名作が多数生まれているから、捻りを入れなくてはと余計な力が入るから、それでもなお陳腐化してしまいそうだから。
恥ずかしい理由は、まるで流行に合わせようとしているように感じるから。
流行に乗って悪いことなどない。しかし他人と同じことはやりたくないという過剰な自意識を、物を書く人間は抱きがちではないだろうか。それこそ余計な考えだろうか。

あらゆるものを異世界転生させているな、と自分でさえ感じた時期があった。だから流行していたのだろう。
王道も、邪道も、パロディも、虚をつくやり方も、もう試され尽くしたのではないかというほどだ。
あらすじだけを見て、今世でおやりになったら? と思ったことがないでもない。

もし、猫も杓子も同じテーマで書きまくって世の中が駄作で溢れかえる……としても、その事態を忌避すべきではないだろう。
そんな遠慮や躊躇で、生まれるはずだった作品がなくなるほうが、恐らくもったいない。
河原は石で埋め尽くされるべきである。
途方に暮れるような数の石くれの中に、価値ある宝や、磨くべき素材を見出だすのが、編集者やブックキュレーターといった人々が本来担うべき、ひどく困難で大切な仕事なのだろう。

異世界転生ものを書く人は、勇気がある。孤島や山荘、屋敷に挑む人と同様に。
自分にそれができるだろうか?
書きたくなったら書くべきだろう。石ころを増やせ。こんな凶悪犯と同じ場所にいられるかと、ためらうことなく叫んでいけ。

飽食の人


レストランに入ったら、普通の味のものが少ない量で出てきたので、寂しかった。物足りないので追って注文しようか迷ったが、寂しいお店でおかわりするのがためらわれて、やめた。

食いしん坊の文章である。

「普通の味」と書いてしまったが、真っ当においしかった。ただ、思ったようにおなかがふくれなかったので、ことさら満足感が低かったのだと思う。

大食漢ではないつもりだ。しかし腹八分目に留めるのは苦手である。少しだけ食べるのは難しい。食べるなら満腹まで食べたい。
そうでないなら、食べないほうがむしろ楽だ。意図的に食べないことは、たまにある。

断食について調べると現れる、思想的な説明も、科学的な(あるいはそう見える)説明も、いまひとつしっくり来ない。
「食べない」という「断」の部分、オール・オア・ナッシングで割り切ろうとしているところに、魅力を感じているのかもしれない。
とは言え、ここでイメージしているのは、非日常的なレジャーとしての断食である。
断食の必要に迫られたいわけではない。

食べたいのに食べられないのはぞっとしない。
今日食べたおいしいものを、できるなら明日も食べたい。
健康、経済、社会的ないろいろ……多くの条件がそろって、初めて叶う願いである。
皆の願いがちょうどよく叶い、なおかつ、自分も満腹になりますように。

忘れた


何を書こうとしたのか忘れるのを防ぐため、まず画像から用意して、それを見ながら書くことが多いのだが、今日はフリー画像検索の入力フォームにカーソルを合わせたところで忘れた。

忘れましたという記事を仕方なく書いているが、同様のことが今後も起こりかねない。
何なら、過去に同じことをやっていて、忘れている可能性もある。

大抵の場合、画像、タイトル、本文の順で書く。

適当に文字を打っていても思い出せないものは思い出せない。
物忘れはいやだなぁ。
いやだなぁ。

いいと思うところを拾う


「歯が抜ける初夢を見たが、どういう意味があるのだろう」と人に聞かれた。
その場で検索してみたが、ネガティブな意味が目立つ。
ただ「ストレスから解放されてスッキリする」という解釈もあったので、人にはその箇所だけを伝えた。
「とてもいいね」と言う。とてもいいですね、と思う。

私の初夢は、想像力が広がって新しいものを作れるだろう、と解釈することができるものだった。
もし、いい面を拾うのならば。

占いとはこのくらいの表面的でライトなお付き合いを続けていきたい。

重い岩や、深い沼が、そこらじゅうにある。
立ち向かうべきときもあるのだろうが、潰されたら大変だ、沈んだらおしまいだ。
見ないふりをしたり、避けたりもしよう。
どんな力持ちだとしても、目に映る岩を片っ端から持ち上げて歩かなければならない決まりはないはずだ。

我知らぬ悪行


晦日の夕食を終えて、ふと十数年前に迷惑をかけた人のことを思い出した。
大変申し訳なかった。

ただ、もし地獄の閻魔様のような存在の前に引き出されたとして、挙げられる自分の罪業はその件ではない気がする。
もしかしたら、そんなことありましたっけ、というような物事を並べられるのではないか。

人を傷つけるとか苦しめるとかいうと、大ごとのように聞こえる。
しかし、人を困惑させるとか落胆させるとか、そういうことは日常的にやっているかもしれない。

人に迷惑をかけずにいるのは無理だろう。
できるだけ誰とも関わらずにいようと思っても、日々を過ごしている限り何かしらはある。
どうしても、ある。そのはずだ。

2024年も人を困らせたりがっかりさせたりしながら生きていこうな。

水平思考ゲーム


冬至だった、昨日が。
柚子を準備していたのに、湯舟に持ち込むのを忘れるところだった。慌てて入れた。

風邪はほとんどひかなかったが、病気はした。休む時間の多い一年だった。
今日は一日中寝ていた、と感じて数えると、12時間睡眠ということがよくあった。
どちらかというと、残りの12時間は稼働していたはずなのに何もできなかった、という思いのほうが強い。

柚子湯に病気を防ぐ効能は恐らくほとんどないだろう。
ただ、かつて田舎の子供だった自分は、柚子湯に入ったおかげで東京に行くことができた。
一体どういうことだろう。

歌から先に帰ってくる


家の外を子供の歌が横切っていくと、近所の小学生は下校時刻になったのだなと分かる。

外の歌がこれだけ聞こえるということは、もし家の中で歌ったら同じくらい外に聞こえるのだろうか。
それとも、子供の声が高いから、特別によく聞こえるのだろうか。
では今から私が家の中で歌いますので、あなたは外にいて聞こえるかどうか判定してください。
……という実験は、本当にはなかなかやらない。

カラオケに行くとなったら、あらかじめスマホに曲目リストを作ることにしている。
準備をしておかないと、当日頭が真っ白になって、歌詞も分からない曲を入力してしまって、あわあわするに決まっているからだ。
もう何年も行っていない。形だけでも歌える歌が、一体いくつあるだろう。

焼肉の食べ放題に行くときのリストは既に作ってある。
食べたいメニューを並べてあって、上から順に注文していくのだ。
粋ではないかもしれないが、何度か試した感覚では、このやり方を用いたほうが満足度が高い。
行くたびに、少しずつリストを更新し、ブラッシュアップしていく。
好きなメニューの頼み忘れもなく、食べ過ぎることもなく、ちょうどよくなる。
おためしください。