飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

窮屈な現代の本当らしさとそれを信じるということ

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心霊と怪談の違いとはなんだろう。いや、実のところ、それはなんとなく分かる。では、心霊番組と怪談番組の違いとはなんだろう。

の編集中にたまたま読んだ「“恐怖コンテンツ”の勢力図に異変!? 「怪談番組」がCSなどで重宝されるワケ」という記事が気になった。

この記事に書いてあることを信じれば、「非科学的」「やらせ」「捏造」への視線が厳しい現代において、テレビ番組では「心霊」より「怪談」のほうが扱いやすい、らしい。

前半は、感覚的には納得できる。「非科学的」も「やらせ」も「捏造」も、安心して指を差せそうな、明らかな悪徳に見えるのだろう。こんなアメリカンジョークを聞いたことがある。「警察官になりなさい。相手のほうが必ずあなたより悪いから」。

引っ掛かるのは後半である。「心霊」に捏造の影が見えたら、視聴者に糾弾される。だったら、なぜ「怪談」ならそれが許容される(とこの記事の著者は考えている)のだろうか。

「心霊」より「怪談」のほうが扱いやすいという構図からは、「心霊」は事実でなければならない、「怪談」は作り話であってもよい、という前提があるように思える。心霊と怪談の違いは、本当にそんなところにあるのか。

私は、心霊は霊的なものそのもので、怪談は心霊を含む不思議なもの・ことが「あったとさ」と語ることだ、と捉えている。事象と受け手の間に、語り手が挟まることにより、確かにそこに嘘や脚色が混じる可能性は高まるだろう。

ただ、「番組」である時点で、それは「あったとさ」という語りの一種になっていると思う。「番組」は明らかに、心霊現象を受け手(視聴者)に伝える語り手である。すると、心霊番組は既に怪談と変わらないものになっている気がする。怪談番組の場合は、事象→語り手→番組→視聴者と仲介者が増えるだけではないのか。

さらに言えば、怪談が作り話であるとも限らない。現に、先ほどの記事でインタビューを受けている語り部の方は、実際の体験談を「ルポルタージュ的なアプローチ」で取材し、披露する形式をとっているという。

(この方は、心霊番組が作りづらくなった理由をどう見るかと質問されて「心霊スポットのロケはお金がかかる。語り部をスタジオに呼んで話をさせるのは低予算」という内容の回答をしており、なるほど明快で納得しやすいなと思った)

それなのに、怪談というものに嘘っぽさを感じるとしたら、それはなぜか。心霊現象を目の当たりにするというのは特別なことだ。しかし、怖い話をするのは誰にでもできそうなことだ、と思うからだろうか。

そう、誰にでもできる。絵だって誰にでも描ける。小説だって誰にでも書ける。楽ちんで、いい加減なものだ。しかしそれをうまい具合にやろうと思ったら、どうやらこれは全然簡単でもなければ、誰にでもできることでもないぞ。

でも、いい加減なものだと(もし本当に思われているとしたら)思われていたほうがいいのかもしれない。怪談は、どこかに瑕疵がないかと目を見開いて隅々まで検証するための材料ではないのだから。ましてや自分で目の当たりにした心霊そのものだったらなおさらだ。

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