飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

ほろ苦さの中から甘さや辛さやさらなる苦みを

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 短歌集『さよならが来るのを待っている君へ』(作/鈴木ちはね・三上春海)を、文学フリマで買って、その会場で読んだ。私はひどく心動かされ、短歌の話をしたくなった。本の感想とは言い難い自分語りに、書名を出すのは却って失礼になるかと考えもしたけれど、「この本を読んでの感慨」の話であるのでやはり引かせていただくことにした。

 

 私が短歌を最も詠んでいたのは高校生のときだ。〆切までに何首以上という具合に、部活でノルマがあった。それまで、小説を書くことはあったが、短歌を自分で作ったことはほとんどなかった。ともかく、知っていることと言えば五七五七七である。無理矢理詠んだ。

 歌集も探して読んでみることした。現代の女子高生であったから、ひとまず俵万智である。『サラダ記念日』と『チョコレート革命』を読んだ後、図書館で岩波新書大岡信編『折々のうた』シリーズを見つけた。これが読んでも読んでもおもしろく、だんだん短歌にはまっていった。

 

 Twitterの短歌タグをたどっていて、「素敵な歌だな」と思うと三上さんの作品だった、ということが何度かあった。文学フリマに出展されると知り、サークルブースを訪れ、鈴木さんとの共著である『さよならが来るのを待っている君へ』を購入した。

 私は二階の奥に自分のブースを取っていたので、座ることはできた。ただ、空調の効かないホールの中は暑かった。水分を取ってからパイプ椅子に腰かけ、膝の上に本を置いてこっそり読んだ。

 

 短歌の好みは、時々によってずいぶん変わった。

 字数に限って言うと、最初の頃は、ともかく五七五七七の定型でないと気に食わなかった。字余り、字足らずというだけで、その歌を忌避した。

 そのうち、必ずしも五七五七七と切れるわけではない、三十一文字でひとつながりの文章の形をした歌を好むようになった。三十一文字でさえあれば、五、七、と区切って読んだときに、単語が中途半端に切れるのも構わなかった。

 今は、初句が六文字になる歌を好きになることが多い。一方で、四句、結句の字余りはどうも落ち着かない。もちろん歌によるのだが、出だしにちょっともたついて、後半がよどみなく流れるものに好感を持つようだ。

 

 この本に収められた歌には、五七五七七ですんなり読み下せないものもあった。そういう種類の歌にぶつかったとき、いつもはじめは無理にでも五、七、と区切って読む。単語の途中で切れる、不自然な読み方をする。そうして毒味をするように最後の文字までを読んでから、視線を引いて全体を眺める。

 そうやって、噛みしめた後に改めて俯瞰するやり方は、ほろ苦さの中から甘さや辛さやさらなる苦みを探り当てるのに合っている気がした。

 鈴木さんの作のうち、特に気に入った歌は「郵便が」「きらめきが」「中野きた。」、妙に印象深かったのは「軽業師そうべえ」である。

 

 先日の文学フリマに参加して、手に入れた歌集をブースの中で読んでいた。自分で短歌を詠まなくなって久しい。歌、歌の連なりを追っているうちに、私は個人的な懐かしさの奔流に呑み込まれてしまった。暑い、息苦しい。十代の、その後半の頃の、軽さと眩しさと生きづらさ――

 声をかけられて我に返った。自分のブースに人が来てくださっていたのに、まるで気付いていなかったのだ。いけない、と思った。私は本を閉じた。

 

 本を閉じる直前に見ていた歌は、三上さんの「神様、明日、」だった。