飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

大きな玉ねぎのカレー

例えば(はじめに言っておくと今夜これに類することは誰からも言われていない)「君の作った今夜のカレーは、玉ねぎの切り方が大きいから、今度からはもっと小さく切ってほしい」と言われたときの気持ちの落とし所。
大きく切った理由は、今日疲れていて小さく切る気力がなかったからである。元気のあるときは小さく切る努力をするが、今日はこのカレーで良しとしてほしいし、これからも大きな玉ねぎのカレーを出すことはあると思う。
しかしこの私の言い分は、会社勤めであれば「雑な仕事をしたのは、疲れていて気力がなかったからである。元気があるときはもっと頑張るから、今回はこれで良しとしてほしいし、これからも雑な仕事をすることはあると思う」となるだろうか。
彼女は減給である。
あらかじめ炒められた、あるいはカットされ玉ねぎを購入することは、コスト面が見合えば可能だろう。ただし私はそれをもったいないと感じる。その分の費用を「玉ねぎを小さく」と言っている顧客に請求するのなら、ありかもしれない。ただ、そうしたいわけではない。
そういうことも天秤にかけた上での、大きな玉ねぎのカレーというあえての選択だったのだ。
改善してくれ、と伝えるのは自由である。そしてもっともである、特に家庭内なのだから(そう、実は家庭の話を想定しているのだ)。「小さい玉ねぎのカレーのほうが好きだから、今度からはそうしてほしいな」と発言することに問題はない。
ただ、こちらだってあなたのその希望はもとから分かっていますよ、分かっていて、ただこちらが疲れているからやらなかったんですよ、ということを言いたい。
彼女は何を言っているのだ、ということだ。
疲れているから雑にやったしこれからもやるよ、以外に説得の方法がないのだ。私は疲れているから手を抜きたかったし、お金もかけたくないの。大きな玉ねぎのカレーだって、好みじゃないかもしれないけど、それなりにおいしいでしょう、だからこのくらいでいいことにさせてよ。
相手がその言い分をしているうちに減給になった場合、私は「そこはもっと頑張ってよ」と言わないでいられるだろうか。少なくとも、改善してほしいと思うことは避けられない。
分かっているよ、減給になるかもしれないと分かっているけど、自分が疲れていることも大切にしないといけない事実だから、手を抜いたのだ。相手がおそらく喜ばないと分かっていながら、自分が疲れているという事実を重視して、手を抜いたのだ。同じことだ。
私が相手を頑張らせたいなら、相手が私に要望することも(そしてその要望は決して無茶なものではない、もう少し頑張れば十分実現可能なことなのだ)容認するべきだ。
そもそも、相手は「玉ねぎを小さく切ってほしい」と伝えることで、彼女を困らせたいとは思っていない。というより、このような些細なことで、困ったり、悩んだり、後々まで引きずったりしないでほしいと思っている。ましてや怒ってもらいたくも落ち込んでもらいたくもない。双方の幸せのために(カレーはみんなのために)。確かに些細なことである(しかし私にとってはよく考えた末の大きな玉ねぎというつもりである)。
要望を伝えたい。そのことで深刻になりすぎないでほしい。
相手は間違ったことはおそらく言っていない。
いや、そもそも今夜、こんなことは誰にも言われていない。私の想像である。こういうことを言われそうだと思ったのだ。今は19:46である。このことは17:30頃から考えている。責めているように見えるのだろうか。そう見えたくない、ただ険悪にならないように「私はよく考えた末に手を抜いたしこれからもそうしたい」と伝えたいのだ。しかしもし直に言われたら私はとっさに明るく柔らかにそのことを伝える自信がない。そのことを責めないようにうまく伝えることが難しいのだ。誤解されない話し方を考えているうちに彼女は口を利かなくなったのだ。彼女は久しぶりに口を聞いた。楽しいことをしたい。人の気持ちが明るくなるようなことを言いたい。彼女はもう長い間無言であった。彼女の頭の中にあるたいへんに明るい話題を探した我々は驚くべきものを見つけてしまった。それは(ここは後で書く)

彼女は疲れている。こんなときに玉ねぎを小さく切るのは大変だ。
しかし、大きな玉ねぎのカレーを作ることでこれだけ悩むことになるのだったら、あのとき5分間だけ気力を奮い立たせて、全部の玉ねぎをみじん切りにするべきだったのだ。