飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

「こぼしてもこぼしても」全文公開(未完)

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『こぼしてもこぼしても』は、文芸同人誌通販型イベント「テキレボEX2」の新刊小説本となる予定でしたが、完成させることができず、欠品とさせていただくことにいたしました。また、今後改めて発行する予定もございません。詳しくは、恐れ入りますが、別記事をご参照ください。🔗
既にご注文いただいた皆様、イベント準備会の皆様、またブログでの公開をお待ちいただいた皆様に、深くお詫び申し上げます。
本来、未完の文章は表に出すべきではありませんが、新刊が出る場合でもブログにて全文公開すると予告しておりましたため、ここに掲載いたします。以下の「続きを読む」よりお読みいただくことが可能です。
この記事の内容は、予告なく修正・変更・削除することがあります。また、この作品はフィクションです。
2021年4月1日 ナタリーの家 わたりさえこ

こぼしてもこぼしても

 朝の街を救急車のサイレンが遠ざかっていく。
 何かあったときの準備はかねてから本人がしていたので、用意されていた荷物を救急隊員に預けるだけで良かった。緊急連絡先とされていた番号に電話をかけると、遠方に住む息子が出たので、状況を伝えた。
 残された2人にできることは、もうなかった。

透明なマスク

 4畳半の小上がりに、人物が2人。互いに背を向けて、部屋の端と端に座っている。
 向かって右手にいるのが、タテル。11歳の少年だが、背は140cmに足りないくらいで、不健康な痩せ方をしている。棒のような脚であぐらをかき、体を揺らしながら壁を見ていたかと思うと、ときどき何かを思いついて、畳の上に放ってあったノートを開き、鉛筆でメモを取る。
 一方、向かって左手にいるのが、ネコ氏。体は成人男性で、首から上が猫である。
 ネコ氏は希望商会のセールスマンだ。便利なグッズを作っては、困った人に売っている。社長が、大中小零細メーカーとのコネクションと、あらゆる種類の製造販売免許を持っているため、何でも扱えるというのが会社の売りだ。
 ネコ氏は、小さなちゃぶ台に置いたノートパソコンに向かっている。ビデオ通話の相手は、化粧品メーカーのシライさんである。声がスピーカーを通して部屋の中に聞こえている。
『申し訳ありませんが、弊社ではそちらの透明マスクを取り扱う予定はございませんわ』
「やはり、価格面がネックでしょうか」
 ネコ氏は営業用の丁寧な声で尋ねた。
『確かに、一般の方には少々高額かもしれません。ただ、それ以上に今は、お仕事でもプライベートでも、リモートで話をする機会が多いでしょう。どうせ画面越しなのですから、必ずしも実際に化粧を施す必要はないのです』
「驚きました。そういうふうにお考えなのですか」
 透明に見えるマスクが一般に流通すれば、この時世で売上減が見込まれている化粧品の需要を喚起できるのではないか。少なくとも化粧品メーカーはそう考えるのではないかと、ネコ氏は見込んでいたのだ。
『当初は、マスクをしていても見える目元のメイク商品を充実させようと考えておりました。ですが、お客さまへのリサーチを行ったところ、ビデオ通話のオプション機能で美肌と化粧の効果をセットすれば、それで良しとする方が多かったのです』
「確かに、マスクは実際に対面するときでないと、使う意味があまりありませんね」
『でしたら、この機会に素肌のケアに力を注ごうというお客さまを、重点的に応援しようとの考えで、弊社の方針は固まりました。他社さまや、他の業界でしたら、透明マスクを求める所もきっとあると存じますが』
「いえ、了承いたしました。貴重なお話ありがとうございます。勉強になります」
 ノートパソコンの小さな画面の中で、シライさんはにっこりと顔をほころばせた。その顔は、やはり化粧の効果を合成したもののようだった。
『こちらこそ。その透明マスクは、大変な技術の賜物と存じますわ。類似品はあっても、ここまでのものは他では見たことがありません。そんな布があるのですね。』
「専用に開発したメッシュを、特別な方法で重ねると、光の具合で透けているように見えるのです」
『細菌や微粒子の、濾過率というのでしょうか、それはどうなっているのですか』
「社内基準の95%を満たしています。正直なところ、息苦しさは多少ありますね」
『生き物ですから、口を塞がれれば、苦しいですし、調子も悪くなるでしょう』
「人も猫も、そこは同じですね」
 シライさんは黙って微笑んだ。ネコ氏は、自分の冗談が冗談だと受け取られているか、いつも自信が持てないでいる。
『ところで、ネコさん、今日は猫頭ですのね』
「リモートだと面白がっていただけます」
『対面では駄目?』
「少し怖い、と言われることも」
『毛とか? 目とか?』
「頭が大きいのと、あとは、血が通っている感じのせいでしょうか」
『そんなの、ねぇ、ぬいぐるみじゃないのですから』
 確かにネコ氏はぬいぐるみではない。
 しかし、では何者だと思われているのだろう、と疑問にも思う。
 以前、社長が「むやみに説明しなくていいよ。聞かれたら、自分に抵抗のない範囲で答えればいい」と言っていたので、それに従っている。
『私には、以前お会いしたときに1度見せていただいた、全身人型のお姿のほうが、よほど不思議に見えましたわ』
「TPOに合わせているのです。化粧と同じようなものでしょう」
『そうでしょうか。いえ、そうなのかもしれませんね』
 つるつる過ぎてもいけない。ふさふさ過ぎてもいけない。
 相手が想像しているのと違ってはいけない。
 化粧も、マスクも、猫の毛も、誰のためのものなのか。
 和やかな雑談を挟んで、通話を切った。それを待っていたタイミングで、後ろからタテルが声を掛けてきた。
「ネコさん」
 ネコ氏は振り返りながら、先程までよりもしゃがれた声で答える。
「何だい」
「前に進めば進むほど勝てなくなるものって何?」
 ネコ氏は耳をぴくぴく動かして、しばらく考えた。
「――いや、分からないな」
「ありがとう」
 タテルはノートに鉛筆でチェックを入れて、ぼんやりと天井に視線を向けた。
 ネコ氏はノートパソコンに向き直って、次の商談の準備を始めた。

愛と家庭

 狭い家に住む気楽さは、もちろんあるだろう。ただ、困りごとも起こるようだ。
『狭い家は夫婦仲を悪くするっすよ、マジで』
 リフォーム会社のオオスミさんは、決めつけるように言った。
『今、仕事も家でする人多いじゃないすか。離婚騒ぎとか、周りでめっちゃ聞きますよ。やっぱ、好きでも一日中顔を合わせるのってしんどいっすもんね」
「そういうオオスミさんも、もうすぐご結婚されるんでしょう」
『うっす。来月っす』
「おめでとうございます」
『めでたくないっすよ。俺はこんな状況だから結婚は延ばそうって言ったのに、彼女に押し切られたんですから』
 友人ならば好ましいが、仕事相手としては心配になるような率直さだ、とネコ氏は常々感じている。
『ほら、出歩くなとか、家族以外とはあんまり会うなって、散々言われてるじゃないっすか。だからさっさと結婚しようってことになって。けど、結婚したら感染しないなんてことないでしょ? 家族ならうつってもいいんすか?』
「家族間での感染はやむを得ないと考える方が多いようですね」
『それって諦めっすか? 妥協?』
「まあ、そうなんでしょうか」
『分っかんねえなぁ。あっ、ネコさんの後ろにさっきからいるのって、お子さんっすか?』
「映ってましたか、すみません。子供ではないです」
 タテルは迷惑そうにのろのろと寝転がり、画角から外れた。
『え、聞いていいっすか。ネコさんって、生まれたときからそんな感じでした? それとも人間?』
「生まれたときは猫ですね」
『猫っすか。マジすか』
 ここまでの話をネコ氏は辛抱強く傾聴し、ようやく尋ねた。
「ところで、先日お送りしたサンプル品はいかがでしたか?」
『あっ、すいません。えーと、あの中だと、防音パーテーションですね。社内での評判が良くて、最近お客さんからの問い合わせが多いところでもあるんで、こちらはぜひ取り扱わせてもらいたいと思います』
「ありがとうございます」
『あれ、いいっすよね。家で仕事するけど、防音室は大袈裟だって人はいっぱいいるんで、多分受けますよ』
「壁だけのものですから、完全防音とはいきませんが。四方を囲えば、電話をかける声くらいなら、外からはほとんど聞き取れないはずです」
『上から普通に音漏れしそうなのに、不思議っすよね。希望商会さんの商品って、いつも結構あり得ないことしてません? 仕組みが想像つかないんすよ』
「ありがとうございます」
 詳細は語らない。実のところ、ネコ氏に分かっていることは少ない。できるものはできる。それだけが確かである。
『ネコさんの家って、そこ、一戸建てですか? 和室っていうか、奥にスペースひらけてません?』
「居候しているんです」
「そういうの、今どきあるんすね。優しい人っすか、家主さんは」
「優しくはないですね」
 ネコ氏はすぐに答えた。タテルも横になったまま頷いていた。
 商談を終えて、ネコ氏はそっと振り向いた。
「問題。花子さんは何年にも渡って太郎さんに『結婚してください』と頼んでいる。しかし、花子さんは太郎さんと結婚するつもりはない。なぜか?」
「ごめん、タテル」
「怒ってないよ」
「でも……」
「ただ、ネコさん、全然なぞなぞ解けないよね」
「意外と難しいんだ、君の出すのは」
 タテルのノートには「迷宮入りなぞなぞ」と表紙に書かれてある。
「イヤホン付けないの」
「俺の耳に合うのがないんだ」
「大人には内緒にして、僕のこと」
「分かっているよ」
 子供たちは元気だ。
 見えないだけで。
 見えないということは、
 元気ではないのと同じなのかもしれない。
 もしかしたら、クリキさんはそう考えていたのだろうか。
「困ったなぁ」
 ネコ氏は天を仰いだ。

無限猫吸い

 ネコ氏はもともと猫である。
 捨てられた猫であったが、生まれてしばらくは人間に飼われていたこともあり、元から比較的清潔な見た目をしていた。そのためか、近所の人間にはよくかわいがられた。
 ネコ氏の右耳は、先端がカットされている。
 かつて人間が、ネコ氏と地域の猫たちを思って、行ったことの結果だった。
 ネコ氏はそれをよく理解していた。より良い生涯のための、合理的な判断だと思った。
 ただ、その「より良い生涯」が、終生人間にかわいがられることだけを意味するのは、我慢ならなかった。
 この世に生まれたからには他の何にも代えられない何者かでありたい。
 現代のこの場所に生まれ、生きてきた当たり前の命として、ネコ氏は常々そう考えていた。

 おもちゃ屋のトイデさんと打ち合わせである。
『すいぐるみは好調ですね。無限猫吸いという通称のほうが通りがいいですけど』
 すいぐるみは、希望商会が今年になってから出した新商品である。ぬいぐるみではなく、猫のなで心地とにおいを再現したクッションだ。これがずいぶんよく売れた。
「ありがとうございます。それで、今度はすいぐるみキーホルダーというのが出るんですけど」
 ネコ氏は浮かない声である。
 値段と数量の交渉をして、話がまとまる。
『手頃な値段ですし、こちらもいいと思います。希望商会さんのほうで、ネット直販の予定などは……』
「今のところないです」
『ゲームセンターのプライズにされる予定はありますか。いや、今はゲームセンターに行きづらい状況なのであれですが、うちの直営の店もありますので……』
「まだはっきりしたことは言えませんが、社内で検討中ですので、決まったことがありましたらお知らせします」
『ありがたいです。よろしくお願いします』
 トイデさんとの通話が切れてから、ネコ氏は客先に見せられないほど顔を歪めた。
 ネコ氏は猫吸いが嫌いである。
 猫の体を押さえ付け、人間が顔を寄せ、息を吸う。
 生理的に無理……という表現を、基本的にはネコ氏は好まない。議論の余地を奪う言い方だからだ。
 しかし、とうてい理解はできなかった。
 衛生的でもない。その意味では、赤ちゃん用のおもちゃレベルの安全性を満たしたすいぐるみは、妥当なヒット商品なのかもしれなかった。ただ「生きている猫からでないと得られない癒やしがある」といった、すいぐるみに満足しない声もあった。
 ――大袈裟なのだ、何もかも。
 ネコ氏は落ち着かず、二本の足で立ち上がり、うろうろ歩き始めた。
 「命助かる」なのだそうだ。無限猫吸いで。
 助かるものか。こんなことで、命が。
 助かるとしたら――

 偶然である。
 猫をかわいがる人間から逃げるように、ネコ氏はあちこち移動し、そのうちクリキさんに出会った。
 クリキさんは、駄菓子屋を一人で切り盛りしていたが、年で計算が難しくなり、店を畳むところだった。
 ネコ氏はクリキさんの店のそばに居着いた。クリキさんは、特に何もしてくれなかった。ただ、クリキさんは
 あるとき、駄菓子屋におもちゃを納めていた希望商会の社長が、閉店に
 クリキさんは「この子をどうにかしてやれないかい」と言った。
 社長は「やりましょう」と言って、実際にそうした。
 ネコ氏は、首から上が猫で下が人間の、今のネコ氏になった。

「ネコさん。何の値打ちもない数字って何?」
「猫さ」
 とっさに、ネコ氏は答えた。タテルは目をぱちくりさせる。
「何それ」
「悪かった。間違えたんだ」
「ネコは数字じゃないよ」
「分かってる。そんなことより、それもなぞなぞか? 変な問題だな。答えは書いてないのか」
「本で見たんじゃないよ。クリキさんに聞いたから」
「クリキさんは、答えは教えてくれないのか」
「今度聞くつもりだったんだ。今のうちに分からないものはまとめておこうと思って」

「ネコさん。猫に値打ちはあるよ。少なくとも、僕よりはあると思うな」
「タテルと比べられたら、否定するしかない」
「僕は最底辺さ」
「そんな言葉、どこで覚えた」
 ネコ氏は鋭く問い質した。
「誰でも言うよ。大人も子供もみんなだ」
「誰だ」
「誰って、親とか、先生とか。クラスの人とか」
「先生が全員、そう言ったか。生徒が全員、そう言ったか。タテルは聞いたのか」
「そりゃあ、聞いてない人もいるけど。聞こえるところで言うか、聞こえないところで言うかの違いだけだよ」
「聞いていないなら、言っていない」
「そんなの分からないよ。きっと言ってる。言って笑ってる」
「タテルに聞こえないところで言っているなら、言っていないのと同じだ。きっと言っているなんて想像するのはばかだ」
「ばかって言った」
「俺はいいんだ」
「クリキさんもそんなこと言ってた」
「クリキさんも?」
「『タテルは最底辺だ』って」
「あの人は、本当に……」
 ネコ氏は絶句した。
「大丈夫だよ、ネコさん。クリキさんのは、悪い意味じゃないと思うよ」
「俺のもだ」
「でも他の人のは全部悪い意味さ」
 タテルの飄々とした態度が、ネコ氏は気に食わない。
 世の中のことを何もかも分かったような気でいるのだ。
 何か言ってやりたい。
 人間同士には共通の言葉がある。
 言えるはずだ。
 なのに適切な言葉が出てこない。
「そうだ、ネコさん。猫って、持ち上げたら伸びるらしいよ。はやってるんだって。今度のすいぐるみは伸びるようにしてみたら?」
 ネコ氏は愛すべき猫として消費されることを嫌う。
 だから希望商会のセールスマンになった。

選挙運動

 腹が減ってきた。
 買い出しならネコ氏が行くしかない。普段はクリキさんが用意している。
「クリキさん、いらっしゃる?」
 玄関から声がする。
「これ、お友達が作ったパンですの。ああ、作ったといっても、隣町でパン屋をやっていて、ちゃんと売っているパンですから、ご心配なく」
 ネコ氏は希望商会のセールスマンだが、ときどき物を売られそうになることもある。
 物を売られるのを断る言葉はあるのに、心を売ってくれと言われて断りづらいのはなぜだろう。
「世の中はすごくめんどくさい。分かります? 上手なルールを作れる人はいるわ。シンプルで、効果的で、皆が幸せになるルール。でも、ルールを作る人は、同時に、人をどうルールに従わせるかを考えないといけない。そこが、もともと単純で美しかったルールを、複雑で醜いルールに変えてしまう」
「この先生は、それを変えることができるんですか?」
「さあ、知らないわ」
 ネコ氏は戸惑う。
 モギさんは続けた。
「知らないですけど、誰だって同じですから。いい夢を見させてくれる人に投票したいと思いません?」
 モギさんは帰った。
「あの人が持ってきたパン、食べるの? 僕、何か嫌だな」
「それは自由だ。俺は食ったほうがいいと思う。他にはないからな。ところで、タテル。さっきのあれ、考えたんだが」
「え?」
「何の値打ちもない数字」
「分かった?」
「ろくでもない、じゃないか」
「どういう意味?」
「6以外の数字」
 タテルは首を傾げる。
「6以外の数字全部ってこと? そんな答え、ある?」
「他には思い付かないな」
「思い付いてないだけで、あるかもしれないよね」
「それは、まあ、そうだが」
 ただ、その見えない可能性をいつまでも追うのは難しい。
 どこかで見切りをつけなければいけない。
 ――ということを、この人間の子供にどう教えるのがいいか。ネコ氏には難しい問題だった。

タイムカプセルロケット

 ネコ氏も眠れば夢を見る。
 同じ夢を何度も見ることもある。昔話のような夢だ。
 少年が、犬、猿、雉、猫を引き連れて旅に出る。全員揃って鬼を倒せば、望みが何でも叶うという。しかし猫は、鬼との戦いの中で死んでしまった。そこで少年は、取れてしまった猫の首を手に掲げ、他の3匹と共に望みが叶うよう祈った――
 そういう夢である。
 ネコ氏は、これを特別な悪夢だとは考えていない。
 少なくとも、昔のただかわいがられていた自分が夢に現れるよりは、幾分かマシだと思っている。

 ネコ氏は希望商会のセールスマンである。
 タイムカプセルずれこんで卒業行事あまりできずこの時期
 卒業生に思い出のタイムカプセル。空に打ち上げ、自転公転も考え合わせて、落ちてくるまで10年。
『ロマンのある話でしょう』
 ネコ氏は思いを巡らせる。
 10年後のその日その時間にその場所に憎い相手を呼ぶことができたなら。
 いじめの復讐。
 恐ろしい殺人装置。
「ロマンのある話だ」
 ネコ氏は小さく呟いた。
 そのとき、玄関の片引き戸を、乱暴に叩く音。磨りガラスがバンバンと鳴る。
「タテル!」
「家主が倒れて取り込んでるんだ。帰ってくれ」
「そこにうちの子がいるだろう」
「あんたのことなんか知らないよ」
 静かになった。
 去ったかは分からない。
 しばらく息を潜める。ネコ氏も、タテルも。
 ネコ氏はこんなときどうすればいいのかが分からない。
 寄り添うのだろうか。離れるのだろうか。
 人ならどうする。猫ならどうする。
 少年はどうされるのを望む。
「大丈夫か」
「こぼしてもこぼしても……」
「うん?」
「こぼしてもこぼしても、尽きることのないもの、なーんだ?」
「何だろう。いや、待ってくれ。考えたら分かりそうだ」
「これも、クリキさんが僕に出したんだ。でも、答えは教えてくれなかった。子供に出すような問題じゃなかったって」
「クリキさんが言うなら、そうなんだろう」
「うん。でも聞き出しておけば良かったかな」
「また機会はある」
「いつまでもこのままじゃ駄目だし」
「クリキさんはこのままじゃ駄目なんて言わない」
「言うよ」
 ネコ氏は少し考えた。
「言うだろうな」
 2人で顔を見合わせて少し笑った。

ゴルゴーンの目

 仕事をしていればお客さまからお叱りを受けることもある。
『商品力は高いのに、場当たり的で、ビジョンが見えないんだよ』
 大変お世話になっているお客さまだったので、
『社会への貢献というかね、世の中にどうなってほしいのか。希望商会さんは、これから大きくなっていく企業さんだと思うし』
「ありがとうございます」
「しかし、君の提案はどうだ。悪夢のような食事会だ。君もそう思わないか?」
「そうかもしれません」
 実際、そうかもしれなかった。
 自分の望みと現実とがかけ離れていることを悪夢のようだというなら、ツネカワさんにとって確かにこれは悪夢だったのだろう。
 望まれぬ悪夢を用意してしまったセールスマンは、お客様に謝った。もちろん、そうするべきだ。
 謝って、通話を切った。
「何だったの?」
「飲食を伴う会食をしたいというから、代案を出したら、叱られた。前と全く同じやり方ではないからと」
「昔に戻りたいんだね、きっと。昔が良かった人なんだよ」
 そういう人も当然いる。
 あらゆる問題が置いてけぼりになっている。
 前は幸せだったわけでもあるまい。
 前に幸せだった人は戻りたいというのかもしれない。
 前より悪くなった人も、当然いるだろう。
「タテルは世の中にどうなってほしい?」
「学校に行かなくて良くなってほしい」
 集団が良くないということで、現在は分散登校が行われていた。リモートでの授業も導入されるという話があるようだ。
「それは夢のある話だし、叶うかもしれないな」
「そうだといいけど」
「なぞなぞを集めて仕事にするとかどうだ?」
「これはそういうのじゃなんだよ。別にただの、何だろう、作業なんだ。気持ちが落ち着くんだよ」
 タテルには将来の見立てはないらしい。
 ネコ氏もそうだった。
 いや、昔のネコ氏は、猫でなくなりたかった。
 社長がそれを叶えてくれた。
 社長にはビジョンがない。ヤナギサワさんの言うとおりだ。
 後先を考えていたら、野良猫を、こんなふうに人型にはしないだろう。
 独立して生きていきたかったネコ氏は、社長に頼らなくては人間として生きていくのが難しい異形になった。

 絶望の足音が聞こえる。
 何をしても良くならない。
 何が正しいのか分からない。
 そんなことはずっと同じだというのに、いざ突きつけられると人は焦る。
 良くしようとする。正答を出そうとする。
 ネコ氏は希望商会のセールスマンである。
 人の助けになりたいが、どうしていいかは分からない。

 清掃会社のビジネスマン、イワクラ氏は言った。
『石の捨て方を知っているか?』
「そういえば知りませんね」
『あのね、石って自然物なわけ。自然物はゴミじゃないんだよ。屁理屈だよな。公園に持ってって投げたら怒られるんだろ。ゴミ屋敷が生まれる原因の一部は、ゴミ出しが複雑になったせいだと思うよ。あれは、できないやつにはとてもできないだろう。
できるできないじゃなくて、必要だからやるというのは、おかしくなさそうで、おかしな話だな。あんたのところの社長さんは、つまり、何でも作れるんだろう?』
「何でもということは、ないと思いますが……」
『何でもさ。だって、あんたみたいな猫人間をつくれるんだから』
「それは、まあ」
『レジンを固めるように、何でも石にして、砕いて捨てられるようにすれば、ゴミ問題ってやつもちっとはましになるんじゃないか。そりゃ、石より処分しやすいものがいいに決まってるがな』
「ゴルゴーンの目みたいですね。見られたら石になる」
「そんな洒落たもんじゃなくていい」
 ゴルゴーンは洒落ているだろうかとネコ氏は訝しんだ。
『石になって粉々。シンプルでいい。それが結局一番いい方法さ。本当の自然物にすることはできないが、石にして、砕いて、砂にして、海に返してやれば……』
「海に撒くのは、いろいろとまずいでしょう。それではまるで……」
 それではまるで葬式みたいだ。

青春さよなら切符

『もう死んでしまいたいです。後先を考えず、迷惑も顧みず。心からそう思っているつもりなのに、後先を考えるし、迷惑も顧みるし、痛いのも苦しいのも嫌だ。とても自然に、社会的にも肉体的にも、きれいに消えることのできる道具って、何かないものですかね』
 ネコ氏がそんな相談を受けたのは、これまで1度や2度の話ではない。
 そして希望商会は、便利なグッズを作って売る会社である。
 何でもある。
「それはいい。売れそうだ。社長に伝えておきましょう」
 いつも、そう言って、ネコ氏は笑う。
 相談を、冗談にする。
 おかげで救われた命があったかもしれない。
 代わりに突き放された魂も、きっとあっただろう。
 ネコ氏は一介のセールスマンである。
 手に余るものは背負えない。

 マルオさんはイラストレーターである。500円玉大の小さな円形の紙に絵を書いて、ネットショップで売っている。希望商会は持っている多様なルートを生かし、マルオさんの絵に合う額装の材料や道具を提案していた。
 マルオさんはいろいろなものに恵まれていた。生まれた時点で、裕福な家庭に。絵の才能に。家族に。友人に。仕事に。ほとんどあらゆる幸運に。ただ、治りようのない病気を抱えていて、体は年々思うように動かなくなってきていた。
『本当は、この春に、渡航予定、だったのです』
 カメラの向こう、映像はオフになっていたが、リモートの向こうにいる画家の声に、ネコ氏はじっと耳を傾ける。
『親を、説得しました。お金も、貯めて。もつれた糸を、解きほぐすような、手続きも、終えて。それも、全部、変わりました。外国に、行けない。予約した日に、行けない。やり直しです。親は、運命だと言います。今、行けなくなったのは、運命が、私に、死ぬなと言って、いるのだと。でも、このまま自分の意思が示せなくなるのなら』
 ネコ氏は何も言えない。
『多分、ネコさんが、他の人とは、違うから、口に出して、しまうの』
 マルオさんは沈黙した。
『ごめんなさい。私、言ってはいけないことを、分からなくなるくらい、おかしい……』
「大丈夫です。おかしくありません。言ってはいけないことでも、ありません」
『私、とても無難な、人間だったんです。本当に、そうだったんです』
「よく分かります」
『ルールに、則って、人に、迷惑を、かけないで、生きていきたい。でも、できない。時間が、ないんです。未来のいつかじゃ、間に合わない。喋れなくなる。動けなくなる。心臓が、働いていても、私が、自分の意思を、示せなくなるほうが、きっと先。ほとんど健康で、みんなに愛されて、まだまだ生きていたかった人が、不意に死んだりする。どうして私がまだ生きていて、その人は死んじゃったんだろう。誰でもいい。替われるものなら、替わりたい』
 マルオさんに時間があったら、ネコ氏は絵を頼んでみたかった。似顔絵ではなく、例えばよく見る夢の絵を。でも、もうそれを頼むのは厚かましいことのような気がする。いや、もっと時間があるときからの付き合いなのだ。先に描いてもらえないかと持ちかけるべきだった。引き受けてくれただろうか。

「社長、マルオさんの画集が出せないでしょうか。それか、個展をやるか。いや、ご本人がそれを望まれるかは、分からないのですが……」
『力になりたいし、お金を出すのは構わないけど、それだけだと普通だね。生きたい人と、替われる切符みたいなの、作ろうか』
「作っては駄目です!」
 ネコ氏は叫んだ。
「駄目です」
 ネコ氏は手で顔を覆った。短い毛がみっしりと生えた顔。
 ――世界で一番、社長を止めてはいけないのは、自分かもしれない。
 それでもネコ氏は「駄目です」と繰り返した。
 社長は切符を作らなかった。

「ネコさん、僕たち、もうすぐお別れだよ」
「そんなことを言うもんじゃない」
「クリキさんがそう言ってた」
 ネコ氏は口を閉じた。
「僕は家に帰らないといけなくなる」
「困ったときはいつでも言うんだ。電話番号でいいか」
「むしろ困るのはネコさんでしょう。警察に捕まらない?」
「俺はただの居候で、タテルのことはクリキさんの孫だと聞いていて、他のことは知らない、と言う」
「大丈夫かなぁ」
 ネコ氏は、クリキさんがこう言うのを聞いたことがある。「死にかけの婆さんと猫頭しか頼れる先がないなんて、あの子はかわいそうだ」。
「本当は、頼れる人間はたくさんいる。まだ出会えていないだけだ。運が悪いだけだ」
「じゃあ、どうしようもないじゃん」
「そんなふうに思う必要すらないんだ。今、起こっている全てのことは、本当にただの偶然なんだ。たまたまそういう巡り合わせというだけなんだ。だから」
 絶望しないでくれ、という言葉を打ち消すタイミングで、廊下の電話のベルが鳴る。
「出てきて、ネコさん」
 ネコ氏は逡巡していたが、タテルを置いて、廊下に出た。
 受話器を持ち上げ、耳に近付ける。
 ――――。
 電話を切ったとき、ネコ氏はさまざまなことを思った。
 タテルの今後も、自分自身の未来も思った。
 ネコ氏は、悲しみも知っている……人並みに。
 1人になったら、きっとたまらないだろう、と予想した。
 部屋に戻る。
 タテルの姿はどこにもなかった。

それから

 ネコ氏は引っ越した。社長の仲介で、ワンルームのアパートに。
「大局を見ようとすると、気が遠くなるよ。自分の無力さに打ちのめされて、手も動かなくなる。だから、僕には、そういう夢の見方はできないんだけど……ネコさんがやるのなら、それはありがたいことだな」
 ネコ氏は、うまくやろうとしていた。これから、希望商会を、自分の仕事を、もっともっとよくしていこうと考えていた。
 ――ネコ氏は、大丈夫だろうか。
 何か大変な間違いを始めようとしていないだろうか。
 いや、
 大した問題じゃない。
 間違っていたとしても、全く大した問題じゃない。
 なぜなら、ネコ氏はただのセールスマンに過ぎないからだ。
 鍵を外して小窓を開ける。
 部屋の空気が入れ替わる。
 ネコ氏は地球上にいる小さな生き物の1つで、それは他の誰とも変わらない。
 ただ彼の生涯の中でこれほど満ち足りていたことはなかったように思った。

(未完/2021年4月1日)