飛び降りていないことの証明

つつがなく世渡りさえこなせれば

誰かがやるのならやってくれるほうがいい

f:id:sweet_darling:20210311101454j:plain
失われるものも得られるものもある。

さまざまなイベントが中止されたり小さくなったりしている。
残念な一方で、楽になった部分も確かにある。
おっくうだった行事やその準備がなくなったことで、救われた人もいるのではないか。
自分が子どもだった頃を思い出すと、特にそう感じる。

このままいろいろな面倒事がなくなってくれないかな、と考えないでもない。
でも、本当にあれもこれも一切なくなったら、ちょっと都合が悪そうだ。

例えば、お世話になった人が遠くに行くとして、感謝は伝えたいがみんなで集まっての送別会は嫌だ、ということはある。
他方、個人的に声をかけるほどではないが、送別会があるならそこで一言お礼をしておきたい、くらいの気持ちなこともあるだろう。
去り行く当人だって、何もせず黙って送り出してほしいこともあれば、送別会で全員にまとめて挨拶できれば楽だと考えることもあり得る。
そうなると、大人数の集まりごとを避けたがる自分でも、単純に「送別会滅ぶべし」とは言えない。

自分はやらないけれど誰かがやるのならやってくれるほうがいいことって結構ある。

個人から見ればスリムに、全体から見れば多様に。
いろいろなことが整理されつつ、広がりは止まらないでいてくれれば、そのときそのときで便利な道筋を選んでいけそうだけど、そううまくいくかな。

時しか解決してくれない

f:id:sweet_darling:20210310151716j:plain
子育てについての問題がなかなか解決に向かわないのは、当事者が問題から卒業していくからではないか、という指摘を聞いたことがある。
なるほど、そういう面もあるのかもしれない。考え方にもよるだろうが、育児の期間は一時期だ。例えば、乳児に関する問題があったとして、1年程度でその子が乳児でなくなれば、本人とその保護者はひとまず「卒業」となる。あくまで当人にとってはだが、「解決」と言ってもいいのかもしれない。

中学校での問題は、3年で解決する。小学校での問題は、6年で解決する。
会社での問題は、退職すれば解決する。

私の問題は、私が死ねば解決する。
地域の問題は、地域が失くなれば解決する。
人間の問題は、人間が滅びれば解決する。

何もかもいつかは終わるし、問題は解決する。

あとは、どうか全ての人がこういう考えにはなりませんように、と祈るほかない。
とりあえず、私の生きているうちには。

終わりのときを近付ける

f:id:sweet_darling:20210308104043j:plain
小説をどこから書くかという話題はときどき出る。最初から。書きたいところから。台詞から。クライマックスから。結末から。

私は最初から書き、次に結末を書くが、承と転がいつまでもやってこない。

結末をとりあえず書いておくのはいいことだ。結末さえあれば、終わる約束ができる。今まさに書いている者の視点では、終わりのほうからこちらへ近付いてきてくれる。

早く終われ、早く終われ、と五寸釘を打ち込むように書いている。

望んでもいない贈り物

f:id:sweet_darling:20210306091906j:plain
先日の続きのようになるが、与えたくて与えるというのは楽しいことだし、不安も少ない。一方、得体の知れないものを受け取ることになるもらい手は、困ることだってあるだろう。

例えば、親が子を愛する。子のためにできることをしてやり、でも押し付けがましくはならないように、大事に大事に育てたとする。
そうであっても、子が親を憎むことも、生んでくれなんて頼んでないと嘆くことも、当然あり得る。
善意や好意が本当であることと、それらが無下にされることは、矛盾しない。

giftedという表現もある。
人は生まれた時点で、望んでもいない贈り物を受け取らされているのだろう。

未来の日時を選択する

f:id:sweet_darling:20210305084428j:plain
最近こうしてブログを更新するようにしているのは、私はロボットではありませんということを示すためだ。
――という話は、以前Twitterでもしたと思う。今は同人誌イベントで通販の注文を受け付けている期間なので、出展者としては、自分が活動していることを見せるほうが、一般参加の方にとっても安心だろうと考えたのだ。

ただ問題は、ブログの記事を毎日休まず定期的に書ける自信が、私にないということだ。
そこで、思いついたときに複数の記事を書き溜めて、自動で投稿するように設定している。
このブログは、未来の日時を選択して予約投稿できるので、数日先まで用意しているのだ。

本末転倒だ。
これでは、「私が」「今」「活動している」ことの証明にはならないではないか。
私が今すぐ倒れても、数日間はブログが更新される。
見ている方は、ああ、この人は今日も生きているんだな、と思う。

いっそ、投稿時刻も毎日ばらばらにしてみようか。
まるで私が人間であるかのように。

想像力で舗装した歩きやすい道路

f:id:sweet_darling:20210304235613j:plain
「翼」という表現があるせいだろうか。想像力は広がるものだというイメージを、自分はつい抱きがちだ。しかし、想像力は既に空いている穴を埋めるものでもある。

矛盾。筋の通らないこと。でも現実にそうなっている。なぜ? それを腑に落とすための、都合の良い理由付け。

自分は想像力に欠けていると言いながら、豊かな想像力を発揮していることもあるだろう。
無意識に穴を埋めて、それが普遍的な現実だと思い込む。
困ったな。現実と見えるところが実は自分の想像だということを、認めるのは結構難しいんだ。

緑の空気で良かったね

f:id:sweet_darling:20210304153805j:plain
春先は毎年花粉に悩まされている。

今年、初めて空気清浄機を1台買った。
自宅の仕事部屋に置いている。
使っている部屋では、目のかゆみがほんの少し落ち着くように感じる。
それでも、全くかゆくないわけではない。

空気清浄機は、運転中、緑色のランプが点いている。
窓を開けると、ランプがオレンジ色になり、駆動音も大きくなる。
さらにそのままにしていると、ランプは赤色になり、音もごうごうと激しくなる。

昨日、空気清浄機のランプは赤やオレンジのままだった。
この頃花粉がひどいのだろうか、と我が家では考えた。
確かに、目はかゆい。
もし空気清浄機がなかったら、どうなのか。
よく分からない。
やがてランプは緑になった。

花粉は目に見えない。
空気のきれいさは何となくでしか分からない。
ランプの色だけがはっきりしている。

明日、家には2台目の空気清浄機がやってくる。